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「はあ」
愚痴外来に響く田口のため息。この年末に、田口に降りかかった女難(小児科のトラブル)、災難(オレンジ一階のトラブル)、避難(?)にもう外来どころではない。ただでさえ、脳みそがぐちゃぐちゃになりかけているのに、どうすれば良いんだとため息だけが、口をつく。
「大丈夫ですか?」
「全然、大丈夫じゃありません。なんで一度に降りかかってくるんでしょうか? 私は平和に静かに生きていければいいのに…」
向上心ゼロ、出世意欲ゼロ、上昇意識ゼロ。風が吹けば右へ左へと流れ、雨が降れば濡れたまま、日が照れば帽子もかぶらず…。路傍の小石のような生活が大好きな田口に、まるで、今までのぐうたら人生のツケを払わせるかのごとく、奇問難題を投下して来たとしか言いようがなった。
「それは人生を這いずり回った人だけに与えられるご褒美ですよ。田口先生はのたうつような人生を送ってはいらっしゃっらないのですから…」
人生は甘くない。と、藤原看護師はにっこり笑顔の中で、目だけは笑わずに田口に告げた。
「…。来てしまったものは、返却できないでしょうから、引き受けますが…」
はぁ。田口の口からため息が漏れた。
「そう。その意気です。神は自ら助けるものを救わんですわ」
ちょっと違うのでは?と田口は思ったが、もうどうでもよかった。
オレンジ一階と二階のトラブルは、田口だけの手腕に掛かっているわけではない。なので、少しは気が楽?だが、アパートの立ち退きには本当にぶったまげた。学生時代から、かれこれン十年も住んでいるアパートは、すっかり生活の一部になっているし、少々立て付けが悪くても、寝るだけにしか帰らないので、そこそこ気に入っていた。
それが耐震工事のため立て替えになるとは…。つい先日、大家さんから連絡が来て、田口は目が点になった。しかも、耐震工事は年明け早々開始するので、年内に引っ越して欲しいとのこと。どうすりゃいいんだ?である。
「田口先生。実家は桜宮市ですよね」
「ええ」
「でしたら、この際、実家にお戻りになったらいかがですか?」
「嫌ですよ。今更、家に帰ったら、結婚しろってせっつかれるじゃないですか? せっかく一人で良いように生きているのに…」
田口の言い訳を聞いた藤原は、このおっさんはどこまでいい加減な性格じゃと呆れかえる。が、顔には決して見せない。
「せっつかれるうちが本当は花なのに…。じゃあ、せっつかれなければ、帰っても良いと?」
「だめです。だって、私の勤務が不規則なので、夜中に帰るとうるさくて眠れないと文句を言われ、夜勤明け早朝に帰ると、人様が働いている時間に帰って来て、寝るなんて、ご近所様に恥ずかしいだとか。と言うわけで、両親、祖父母から説教、もとい、文句の嵐が降り注ぎ、結局、お前が居ると私たちの生活が乱れるから、どっかに出て行って、時々帰ってきなさいって追い出されたんです」
なんちゅう家だ。が、藤原の正直な感想だった。こんなぽよんとしていても、田口は長男のはず。それを追い出すとは…、恐るべし、田口家。しかし、そのおかげで田口は実家に戻る気ゼロ。藤原にとっては幸いだ。
「それで、行き先は決まったんですか?」
「いいえ…」
田口は今までの元気が一気にダウンして、どよーんとなった。
「いっそのこと、マンションでもお買いになってはいかがですか?」
田口が絶対にしないだろう事を、敢えて口にして、藤原は少しずつ田口を追いつめいく。
「うーん。でも、不動産を手に入れるのはとっても面倒だと、むかーし、速水に聞いたんで、今はしたくなんですけど…」
ぐうたらもここまで来れば、あっぱれ。と、心の中で、藤原は花吹雪を投げていた。
「だったら、官舎を当たってみてはいかがでしょうか?ちょうど、年替わりですから、出て行く人もいるかもしれませんから」
「あっ、そういう手がありますか。取りあえず、当たってみます」
田口がぱぁと明るくなった。
「でしたら、私が施設課に尋ねておいておきますから、田口先生は業務に励んでください」
「ありがとうごさいます」
田口が深々と藤原に頭を下げた。
素直な田口に藤原はにんまり。トイレに行く振りをして、悪巧みの片割れに連絡を入れる。
「私ですわ。ええ。田口先生には実家へ戻る気はありませんので、今のところ大丈夫です。さりげに、官舎のことを匂わせたら、とても喜ばれていました。ええ。確か、病院の独身寮に空きがあるか調べていただけませんか? 私の事前調査では空いていたと思いますが…。では、家なき子作戦の第二弾はお任せいたしますわ」
愛着のあるアパートの耐震工事のための立て替え。実は病院長が市役所に圧力?をかけて、市内一斉調査と一斉補強対策が行われることになった。というのは、永遠の秘密だったりする。
こうして、田口先生の家なき子作戦第一段階が成し遂げられたのだった。
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