彼が北へ行けなかった理由 2 本文へジャンプ

 時間は今より少し前にさかのぼる。

「島津先生を今日、お呼びしたのは、救命救急センターの速水部長に留まって欲しいのですが、それが難しいようなので、何かいい方法はないかとご相談しようと思いまして…」
 年末の忙しい時期に病院長室に呼び出された島津放射線科准教授は、はぁとぼけた声を出した。
「なぜ私が?」
「そう思われるのも、もっともだと思います。速水先生の辞任の意志が固いので、それを撤回させるだけの理由が欲しいのです。それを速水先生と同期で仲良しの島津先生なら、妙案が浮かぶのではと思いまして…。
 取りあえず、えさの一つとして、これを用意しましたが…」
 そう言って、島津の手に例のドクター・ヘリ導入の件を提示した。
「これ、もっと早く入らなかったんですか? 速水がどれほど欲していたか。知らなかった訳ではないでしょうに」
「ええ、まあ。でも、これだって、ようやくこぎ着けた苦肉の策ですよ。どれほど、私が文科省に訴えに行ったか。その苦労は島津先生にはおわかりではないと思いますが…」
 私だって大変だったと高階病院長が拗ねるのを可愛いと、思える人はいない。と島津は呆れつつ、手元の書類を捲った。
「これで十分じゃないんですか? 取りあえず、速水はこれで満足すると思いますが」
「いいえ。今回はこれで速水先生も留まってくれるかもしれません。でも、この先、またこのようなことがあったとき、その時に引き留めるものは無いと言うことです。ですから、速水先生のここに居なくてはいけない理由を作りたいのです」
 島津は、ここまで、この人に望まれる速水はある意味凄いと思う。反面、哀れだと思う。だが、桜宮市を考えても、東城大学医学部付属病院救命救急センターを考えても、速水の不在は大きな損失となる。島津も速水が居てくれると、AIの導入も無理ではないと思っていた。
「速水が居る必要性…。速水が居たがる理由…。…行灯か」
 高階病院長は島津の思考を妨げようとはせず、じっと見守る。だが、その目の中に狡猾な光が走ったのを見たものは居ない。
「学生時代から、速水を動かすには田口を味方に付けろと言われていました。今も速水は田口にべったりです。だとしたら、田口を使って、速水を止められるかもしれません」
「それは。単刀直入に言うと、速水先生は田口先生が…好きと言うことですか?」
 “好き”の前に、一瞬だけ間が開いたのを島津は聞き逃さなかった。
「ええ。それもかなり。速水が付き合った女と長続きしなかったのは、常に田口優先だったからです。田口君と私、どっちが好きなのと女に詰め寄られた速水は、あっさり田口と答えて、呆れられていました」
「と言うことは、“好き”も恋愛的な意味でということですか?」
「たぶん」
 島津は内心で、すまん。行灯。いい加減、速水に春が来てもいいだろうし、俺はこれを利用させて貰うと、呟いた。
「だとしたら、田口先生をえさ、いや、速水先生に向けるといいと言うことですか?」
「ええ。その辺は私が同期をネタに探ってみます。が、この件が成功した暁には、私に何か褒美はあるのでしょうか?」
 病院長に恩を売れるなど、島津にしては二度と来ないチャンスだ。利用しない手はない。
「もちろん。私の裁量でできる範囲のことでしたら、十分、ご相談したいと思っています」
 やったね!。島津は内心、小躍りする。これで新しいMRIの予算要求がしやすくなる。もちろん、病院長の独断で決められるわけではないので、それなりの論文やら研究の趣旨などは提出するが、病院長の後押しがあるのとないのとでは雲泥の差になる。
「わかりました。では、何か分かりましたら、逐一報告いたします」
「ええ。でも、私は何かと多忙なので、私ではなく藤原看護師に連絡しておいてください。そうですねぇ。ミッションの名前は、“不思議の国のアリス”作戦です。意味は穴に落ち込んで逃げられないですね」
「…分かりました」
 藤原とは田口の持っている愚痴外来の専属看護師の名前だ。それぐらいは島津も知っている。その人が一枚噛んでいるということは、田口に逃げ場はないというわけだ。逆に言えば、それぐらい病院長は速水を手放したくないと考えている。それを羨ましいと思う島津がいた。
 しかし、なーんて、趣味が悪いんだ、とも思う。穴に落ちるのが田口で、落ちた先で待っているのは速水? でもって、田口はあっさり速水に喰われるってか? どっちかというと、アリスより蟻地獄なんじゃないか。と思うが、そのまんまの名前じゃバレバレか。と文学的センスゼロの島津は納得した。

 こうやって、島津、高階、藤原。の怖ろしいタッグが組まれた。もはや、速水にも田口にも逃げ場はないと言えた。


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    島津先生がどうやってこの陰謀(笑)に取り込まれたのか。彼が狸のスパイだとは気づかないんだろうなぁ二人とも。
そして、島津の野望は達成されるのか。
平成22年11月7日(日) 作成・掲載
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