彼が北へ行けなかった理由 1 本文へジャンプ

「では、どうしてもここに残ってはくださらないというのですか?」
「ええ。もうここに縛り付けられるのは疲れたので…」
「…どうしてもダメですか?」
 珍しく高階病院長が言いよどんだ。珍しいと、速水は思う。『帝華大の阿修羅』と呼ばれた外科医が、こんな風に言いよどむのを、今まで見たことがないだけに、何となく違和感を感じる。だか、それも思い違いだろうと切り捨てた。
「ええ」
「一つ切り札を出しましょう。近いうちに東城大学医学部にドクター・ヘリが入ります。これでもダメですか?」
 病院長は机上から、ある書類を取り上げると、速水に手渡した。
「これは…」
 表紙には、空を飛ぶ一台のヘリコプターの写真が載っている。その側面に書かれているのは、「ドクター・ヘリ」の文字。そして、タイトルは『東城大学医学部におけるドクター・ヘリ導入における医療の変革についての研究』。急いで、速水は紙面を捲った。
「付属病院にドクター・ヘリ導入は例のごとく予算の関係で厳しいのですが、厚労省と関係ない医学部がドクター・ヘリを制作している海外の企業と提携して、日本で初めて学術的に研究をするため、ドクター・ヘリ導入にこぎ着けました。まあ、せこい手ですが、入れてしまえばこっちのものです」
 しれっと言い切った高階病院長を、速水はしげしげと見つめた。病院が駄目なら、医学部。確かに、医学部の統括は文科省だ。そこが許可するなら、いや、今や独立行政法人となった国立大学は自力で生き残りを図らなくてはいけない状況に陥っている。そして、何事も“日本で初めて学術的に”はそれだけで価値があるのだ。ちなみに、ドクター・ヘリは誰が見ても、あれば良いのは分かりきっている。でも、なぜいいのか。どれぐらい良いのか。それを改めて立証した論文は日本にない。(と言うのも、自治体にはいくつかドクター・ヘリは入っているが、学問として研究しているわけではないし、運行も手探りで行われていると聞く)
「それでも、ここを出て行くと?」
 速水の心が揺れる。ドクター・ヘリが入るのは嬉しい。だが…、一度、切れた意欲はなかなか戻らない。
「どうしても、ここを出て行くとおっしゃるのなら、田口先生に家を貸してあげていただけませんか?」
「はぁ? 田口? どうしてですか?」
 病院長から飛び出した田口の名前に、速水の思考はついていけない。
「ご存じなかったのですか? 田口先生、今、家なき子なんです。先日、長年住んでいらしたアパートが耐震不足のため立て替えになったとかで、急遽、うちの独身寮に入って貰ったのですが…。こちらも、立て替えが決まって、次の行き先がない状態なんです。もちろん、他の方も同様ですから、今、管理部門の職員は寮生活者の移転先探しに追われています」
「だから、私の家に?」
「ええ。どうしても住むところがないようでしたら、私が住んでいる官舎に下宿させようかとも考えたのですが。ちょうど速水先生がここを出て行くことになるのなら、田口先生にどうかと思いまして…。いえ、こちらに残られても、田口先生を引き取ってもらえると、ありがたいのですが、駄目でしょうか?」
 誠心誠意の態度で、病院長が速水に頼む。
「まあ、これから大学も冬休みに入りますので、年明けまでは考える余裕はあると思います。田口先生ともゆっくりお話しされて決められていいと思いますので…」
 しんみりと病院長が告げた。
「わかりました」
 そう答えると、速水は病院長室を辞した。

「あっ、まこりん。高階です。速水先生に田口先生の同居を振ってみました。ええ。ドクターヘリと田口先生との同居。なかなかいい感触でした。…そうですねぇ。そっちはお任せしますよ。この際ですから、オレンジも少しリフォームしようと思っているんですが、ええ、私もそう思います」
 速水が退出して直ぐに電話をかけた高階病院長は、今まで速水に見せていた殊勝な表情を消し去ると、にんまり笑った。
「さあ。賽は投げられた。速水先生はどうするのでしょうか? 舞台の幕は上がりましたよ、皆さん」
 意味深な事を呟くと、高階病院長は窓から広がる桜宮市を眺めた。

そして、
「ええ。分かりました。こちらの方もさっそく始めます。ええ。とっても楽しいですわ。では、お手並み拝借、ゴンちゃん」
 当事者同士は与り知らないところで、着々と糸が絡み始めていた。


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    いよいよ、どうして将軍が北へ行かなかったのか。が、明かされます。
って、もろ捏造です。でも、こうでもしないと、将軍の出番がないから…。でもって、その理由は私が北の国を想像できないからです。
平成22年11月7日(日) 作成・掲載
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