愛は無敵、知らぬが仏 2  リクエスト編 本文へジャンプ

 本館十二階、極楽病棟。普段ならのんびりムードが漂うここが、なぜか殺気立っていた。
「急いで、用意して。できたら、冷まして、冷蔵庫に入れておくのよ」
 丹羽主任が陣頭指揮を執っていた。
「もう、田口先生ったら、現場の大変さを理解しているのかしら」
「主任。顔が笑っていますよ」 
「何てこと言うの。私が言ったことは事実でしょう」
 この病棟では滅多にあり得ないほど、看護師たちがなぜか楽しそうに、ばたばたしている。
「そうですけど…。あのジェネラルがうちの病棟まで甜茶をもらいに来るなんて、ホントでしょうか?」
「そんなの、私に分かるはずないでしょう。でも、田口先生が言うのだから、ジェネラルが来ない方が不思議じゃないの?
 オレンジから、わざわざあのジェネラルがここまで来るのよ。ありません、なんて言えないじゃない。何事も準備を怠っていてはダメ。なかったら、それはそれで良かったと思わなくては」
 丹羽主任は若い看護師にぴしゃりと言う。昨日の田口の何気ない発言で、平和な天国、極楽病棟は朝から大騒ぎになっていた。

「あれっ? 主任、朝から何か慌ただしいんですけど、何かあったんですか?」
 いつも通り、朝から病棟に顔を出した田口は、看護師たちの苦労も気づかず、のほほんと首を捻った。
「田口先生…。先生は昨日、おっしゃいましたよね。オレンジの将軍が甜茶をもらいに来るかもしれないって」
「ああ、そう言えば。でも、オレンジは忙しいので、わざわざ速水がここまで来るとは、あまり思えないんですけど…」
 田口はのんびり、丹羽主任に返事した。
「本当にそう思っています?」
「…ええっと、半分半分ぐらいで。でも、来たら、いつものように適当に相手しておいてくれると、勝手にぐちゃぐちゃ言って消えると思いますので」
「仕方ありませんね。相手はオレンジのジェネラル・ルージュですもの」
 にっこりの丹羽主任。その笑みの裏にある真意に田口は気づかない。いや、この場合、知らない方が幸せだろう。
 
 極楽病棟にオレンジの将軍がひょっこりやって来たのは、田口が愚痴外来で新規の患者と向き合っているときだった。速水はグリーンの術衣の上に白衣を引っかけただけ。しかし、看護師たちの視線を集めるには十分いい男だった。ほんの少しだけ、疲れたような気怠い雰囲気を漂わせているのも、彼女たちの胸を高鳴らせた。
「田口に甜茶を貰って来いって言われたけど」
 エレベータの扉の前を通りかがって、速水に偶然、声を掛けられた看護師は頬を赤らめつつ、長身の速水を見上げる。
「あいにく、田口先生はいらっしゃいませんが、こちらに用意してあります」
 彼女は精一杯の笑顔全開で、いそいそと速水をナースステーション内に案内した。
「主任。オレンジの速水先生がいらっしゃいました」
 大声で、主任を呼ぶ。
「田口は?」
「今日は外来です」
 ナースステーションの壁に掛かっている医師の動静表を見て、彼女は答えた。
「ふーん。じゃ、悪いけど、遠慮なくいただいていく」
 そう言って、速水は田口に持たされたマイ・ボトルを白衣のポケットから取り出した。
「それ、速水先生のですか?」
「ああ。マイ・ボトルだと、行灯の奴が持たせた。今はエコの時代だそうだ。おかげで奴の説教を朝から食らった」
 ぶつぶつ朝の速水家を暴露しつつ、将軍はどかりと椅子に座った。田口のものは俺のもの。俺のものは田口のものと思っている彼にとって、ここが自分の管轄する病棟ではないという意識はほとんどない。速水の意識では完全に身内扱い。なので、速水の仕事モードは半分のレベルまで下がっている。田口がいたら、お前早く帰れと追い出されただろう。
 それでも、術衣に白衣を羽織った格好は、のんびりしたこの病棟では目にできない医師の姿だ。速水の外科医然とした態度と端整な外見に、今年配属された新人看護師がどこかうっとりした目を向けていた。
「それは大変でしたね」
 自称、ジェネラルのファンクラブ会員である丹羽主任が、のんびり口調でお茶の用意を始めた。
「まあ。あいつなりの思いやりだから、たいして腹も立たないがな」
 どこか楽しそうな将軍の様子に、丹羽主任はあらあらご機嫌でいいこととこっそり笑った。田口の話題になると、速水の表情が柔らかくなるのを気づかない者はいないだろう。それぐらい、速水はどこででも、田口大好きを隠そうとしない。
「それで甜茶なのはどうしてですか? 何かアレルギーをお持ちなんですか?」
「喘息はあるが、あとは至って元気だ…。あいつは俺が飴ばかりなめているのを、若くないのだから控えろ。甘いのが欲しいなら、飴よりもこっちにしろっと言い始めて、カロリーオフで体に優しいお茶を持たされた。で、なくなったらどうするんだと詰め寄ったら、例のごとく、飄々とした顔で、自分のところの病棟には常備してあるから、貰いに行けだとさ。
 行灯のくせして、生意気だ」
 速水は田口の文句を並べる。が、その表情はどこまでも甘く優しい。速水が田口にべったりなのを一番目にしているのは、オレンジ新棟一階の看護師かもしれないが、次はここ極楽病棟の自分たちだと彼女たちは自負している。
「田口先生からの伝言は、救命救急センターの速水部長がうちの甜茶をたかりに来るから、黙って渡して、ついでに遊んであげてだったんですが」
 丹羽は田口の伝言をそのまま、速水に伝えた。
「あいつらしいな」
 速水はかすかに笑う。オレンジは彼の戦場だが、ここはまったりとして田口の気配が感じられ、速水のジェネラル・モードがかなり解除される。
「他にも珍しいお茶とかある?」
 オレンジの看護師たちにすら、仕事以外の声を掛けない速水が、ここでは仕事に関係ないことを話題にする。
「今は甜茶ですが、夏になると麦茶がありますよ。秋にはほうじ茶やハブ茶が常備されますので、速水先生も時間があられましたら、いらしてください」
「行灯の奴、いいところを選んだな」
 速水はぼんやり返事をすると、ナースステーションを見回した。ここでは速水のフィールドである外科特有の心電図モニターの音や、頻回に鳴るナースコールも、ここではあまり聞かない。処置の準備をする医師や看護師の慌ただしい足音や声も、あまり聞かない。自分には合わないかもしれないが、こんな病棟もあるんだと、速水は内科系病棟の特徴を改めて感じていた。
 外科とは違う雰囲気の極楽病棟で、速水はジェネラル本来の姿をあまり見せない。自分は部外者だと知っているためか。田口がいないときは一人で、静かに茶をナースステーションで飲んで、ぼうとしている。周りからの接触は拒んではいないが、一人でいるのを楽しんでいるような雰囲気が漂うため、周りはひたすら速水を鑑賞するに止めていた。ただし、田口がいると一気に甘えモードに突入して、大騒ぎになる。
「?」
 このとき、丹羽主任は打てば即反応する刃物のように鋭い速水が、妙におとなしいのに気づいた。過去にも何度かジェネラルが妙に大人しいときがあったが、それはいずれも、速水の腕をもってしてもオレンジに運ばれた子どもを助けられなかったときだった。
 だが、今の彼はオレンジのコールが鳴っても、直ぐには反応しないような危うさがあった。
「あの速水先生…」
「ん?」
「田口先生、あと一時間ぐらいで戻って来ますが…」
「うん…」
 田口の話題に、速水の反応が鈍い。いつもだったら、ここでお惚気が暴露されるのだが、今日の速水は本当に疲れ切って気力を失った虎のようにぼんやりしている。これは変だと丹羽主任は本気で、速水の端整な顔を見つめた。
 ここ数日、オレンジでは重患が立て続けに搬送され、大変だったというのは、テレビでの事故報道で知っている。しかし、速水の様子は疲れとは少し違うようだ。よく見ると、速水の切れ長の目元が僅かに赤くなり、目も心なし潤んで見える。
「速水先生、頭が痛かったり、熱っぽかったりしません?」
 丹羽はそっと周りに聞こえないようにして、速水に尋ねた。
「どうかな?」
 首を捻って考える速水に、丹羽はため息をついた。
 速水先生、風邪じゃないのかしら。目元が赤いし、目も熱がありそうだわ。過労の可能性もあるけれど、これはどう見ても風邪よね。田口先生も気づいていなかったということは、急に熱が出始めているのでは? だったら、オレンジには返せないわ。
 さらに、彼女は患者の症状は冷静に判断できるくせに、自分の体調には無頓着な医者が外科系に多いのを思い出した。
 この人は本当に医者になるべく、この世に生まれたんだわ。そう思いつつも、気怠げな速水の姿に年甲斐もなくときめいてしまう丹羽だった。
「速水先生。失礼します」
と言うと、彼女は慎重に速水の首に手を伸ばした。
「速水先生、身体が熱いですよ。熱があるのではないですか? 誰か体温計を速水先生に渡してくれないかしら」
 丹羽の指示に、意味なくナースステーションにいた数名の看護師が椅子から立ち上がり、走り出した。ばたばたという足音に、師長室から白石が顔を顰めつつ、出て来た。
「騒がしいわよ。どうしたの? 誰が熱ですって?」
「師長さん。速水先生だそうです」
 電子体温計を手にした看護師が通りすがりに白石に告げた。その後を白石が慌ててついていく。
「熱? あんまり、自分じゃ分からないが…」
 ナースステーションでは速水が自分の額に手を当てて、首を捻っていた。だが、白石師長も速水の赤い目元を見て、直ぐに熱があると判断する。
「速水先生、大丈夫ですか? 誰か医局に連絡をして」
 手が空いている看護師が急いで医局に電話する。それを横目に速水は、大げさだな、たかが熱ぐらいでと思いつつ、電子体温計を脇に挟んだ。
 ピッ、ピッ、ピッ。デジタル体温計が鳴った。物憂げに取り出した速水は表示された数字に、ため息を吐いた。
「38.9℃。どおりで何となく朝からだるいと思った…」
「速水先生…。今日はこれ以上、無理はできませんね」
 白石の言葉に、速水はナースステーションのテーブルにくてっと頭を乗せた。
「ああ、する気もない。したら、患者を殺す。行灯が戻って来たら、連れて帰って貰う」
 ここでも、頼る相手が田口先生なんだと、丹羽は速水の田口への信頼度に感心した。田口は看護師としての目で見ると、少し頼りない医師に思えるところがある。だが、『天窓のお地蔵様』と患者からはとても慕われている。愚痴外来という誰もしたくない、患者のクレームを一心に聞いて、患者の心を開かせるのも彼しかできないだろう。医局長の兵藤は帝華大学出身ということで、とても優秀だ。だが、それは机上のことで、彼の性格は……だ。田口の技術と兵藤の頭が合体すれば、天下に怖いものはないだろうに。などと、丹羽は思ってしまう。
「とりあえず、オレンジには私から連絡を入れておきますので、しばらく、ここで横になっていらしてください」
 白石師長の言葉に、速水は素直にはうなずいた。
「熱なんて出したの何年ぶりだ? くらくらする」
 いつになく大人しい速水は、丹羽主任の指示で用意された神経内科病棟の処置室のベッドに横になった。緊急に呼ばれて来たのは、神経内科の医局長、兵藤勉だった。
「…速水部長。どうしたんですか?」
 予想外の大物患者に、兵藤が戸惑う。
「体温が38.9℃。頭痛は軽度。咽頭の痛みなし、咳漱もなし」
「はあ、自己申告ありがとうございます」
 熱があっても、的確な速水の報告に兵藤は少々逃げ腰。何やってるのよ。兵藤の態度に看護師たちの視線が冷たく突き刺さる。
「で、どうする?」
 動かない兵藤に、速水は物憂げな視線で尋ねた。
「えっと。一応、解熱剤を投与しますが、アレルギーはありませんか?」
「ある。喘息が…」
「喘息…」
 速水の意外な持病に、兵藤はどこまでもぎこちない対応しかできない。救命救急のエキスパートに生半可な対応はできないという焦りが見え見えの兵藤に、看護師たちの視線は更に冷たくなっていく。
 そこに、速水部長が倒れたって?いう大声と共に乱入者が一名。
「佐藤ちゃん、声大きすぎ」
 救命救急センター、実質ナンバー2の佐藤伸一。消化器外科のプロフェッショナルが、どこで拾ってきたのか田口をお供に駆け込んで来た。
「で、どうなんですか?」
 佐藤は兵藤を無視して、直接、速水に尋ねる。
「体温38.9℃、頭痛軽度、咽頭痛なし、咳漱なし。呼吸、プルスとも異常なし」
 速水は冷静に自分の症状を告げた。
「速水先生。お願いですから、もう少し早く、ご自分の体調に気がついてください。極楽病棟から『速水部長が倒れた』って連絡が入ったオレンジは瞬時にフリーズし、次の瞬間、パニックに陥りました。我先にと走り出すスタッフを宥めて、待機させるのに、私がどれほど苦労したか…。
 取りあえず、解熱剤を注射して、オレンジに戻りましょう。他病棟に迷惑を掛けるわけにもいきませんから」
「嫌だ。オレンジには戻らない」
 佐藤の説得に、速水はぷいっと横を向いた。その大人げない態度に田口は呆れ、佐藤はがっくりと肩を落とした。
「部長…」
 熱が出て、ますますわがままに拍車のかかった将軍はもはや手の付けられない子どものようだった。途方に暮れた佐藤が助け船を求めて、田口を見た。
「分かった。お前、ここに入院しろ。そうしたら、オレンジにも迷惑を掛けないし、俺も安心だ。うちの看護師さんたちも速水のためなら、誠心誠意、白衣の天使として大切に看護してくれるだろうから、お前も安心できるだろう」
 途方に暮れる佐藤とふて腐れる速水に、田口が冷たく告げた。
「お前、俺を置いてひとり帰るのか?」
 速水は熱で潤んだ目で田口を睨み、声には恨みが籠もっている。
「あのなぁ。お前が家に帰っても、誰も看てやれないのだから、ここがいいだろうって思っただけ」
 呆れかえった田口の返事に、速水はきょとんと田口の顔を見る。
「当直?」
「ああ」
 ようやく速水は田口のシフトに気が回ったらしい。お互いのシフトは玄関にかけてあるカレンダーに書いてあるのだが、このところ忙しすぎて、速水はろくに見ていなかった。
「だったら、ここに入院してやる。で、主治医はお前だ」
 俺様口調のくせして、声だけは甘ったれているから始末に負えない。しかも、手で田口の白衣を握って離そうとしない。
「病気の時ぐらい謙虚になったが、可愛いのに。それに熱ぐらいで、いじけないでくれよ。救命救急センターの部長が…」
 田口はため息混じりに、自分の白衣を掴んで離さない速水の指を掴んだ。互いの手を包み込むように指を絡ませると、ようやく速水が白衣から手を離した。
「部長だろうが、大統領だろうが切れば血が出るし、熱も出る」
「まあ。どちらも人間なんだから、当たり前だろう」
 田口は速水の絡みを適当にあしらう。というか、この場ではあしらうしかない。
「そんな冷たいことを言うと、本気で泣くぞ。いいのか? 困るだろう。恥ずかしいだろう」
 速水の我が儘は止まることなく暴走し続ける。田口はこいつ、自分が何を言っているか分かっているのか? と呆れを通り越して、もはやため息しか出なかった。
「馬鹿、なに甘えてんだよ」
 怒る気力もなく、田口は速水を見る。
「俺が甘えるのはお前だけだ。お前しかいらないし、お前だけがいればいい…。世界中の人間が俺を見捨てても、お前が俺を見捨てなければ、俺は生きていける」
 速水の言葉に田口は絶句。聞きようによっては、究極の愛の告白だ。自分が置かれた状況を全く考えない速水に、田口はもはや処置なしと深ーいため息を吐いた。
「熱で頭、どうかしたんじゃないのか?」
「してない。熱で朦朧としていても、お前よりは役に立つ」
「はいはい」
 田口は速水の額に手を置いた。じんわりと熱さが手のひらに伝わってくる。お前の手、気持ちいい。そう呟きながら、田口の手に頬を寄せる速水の見事な甘えたに、田口は完全に降参だった。もう勝手にしろである。
「佐藤先生、すみませんが、この馬鹿はここで預かりますので、オレンジをよろしくお願いします」
 将軍の見事な壊れっぷりに、目がどこかに行ってしまった佐藤。その彼に田口は恥ずかしさをごまかして、頭を下げた。なんで俺が速水のことで、佐藤先生に頭を下げなくてはいけないのか。などの腑に落ちないものを感じつつも、ここは自分が頭を下げるしかないと割り切れるぐらいに田口は大人だった。
「こちらこそ、部長をよろしくお願いします。オレンジから持参した薬剤はこちらに置いておきますので、適当に使われてください」
 田口は佐藤を前に再度、ため息をついた。日頃、速水の傍若無人ぶりに苦労している佐藤に、速水のしょうもない一面を見せられたのは良かったが、意味なく絡まれたことを考えると割りはあわなかった。
「師長、カルテを用意して貰っていいですか? いくらうちの職員でもただで泊めるわけにはいきませんし、薬も使えない」
 何て面倒な奴。と田口はぶつぶつぼやきながら、速水を見る。相変わらず、構ってと熱で潤んだ目で訴える速水。しかも、大好きが付け加えられ、田口は赤面するしかなかった。
「明日も熱が下がらなかったら、インフルエンザの検査な」
 冷静になるため、田口は医学書を頭の中でめくる。
「うげっ。行灯が医者してる」
「お前の尻に解熱剤、打ってやろうか。最近、筋肉注射なんてしてないから、手元が狂うかもしれないけど…」
「それは嫌だ…」
 いつにない田口の不機嫌さに、おとなしく速水が引いた。
「それにしてもいつ具合が悪くなったんだ?」
 再度、速水に体温計を挟みながら、田口は首をかしげた。朝食はいつも通りの食欲で平らげていた速水である。
「う~ん。自分でもよく分からないが、考えてみると、朝から少し怠かったような。そんなのは夜勤日勤と連続勤務をした後は普通だったから、あまり気にしていなかったんだが…。それにしても、お前の所の主任、結構、やり手だな」
 速水は田口を真っ直ぐ見ると、にっこり笑った。
「後で本人にその言葉、伝えておくよ。きっとものすごく喜ぶと思うから。何せ、彼女は速水の大ファンだからな」
 顔を真っ赤にして驚く、丹羽主任の様子を想像して、田口は小さく笑った。
「こんなところにまで、俺のファンがいるとは意外だったな。本当は俺よりお前の方がずっと頼りになるのにな」
 速水が不思議そうに目をそばめた。
「俺はアイドルじゃないからな」

「とにかく、少し眠れよ。辛いなら、解熱剤を出すが…」
「いい。お前が側にいてくれれば」
 幸せそうで、ほんの少し寂しそうにふっと笑うと、救急の戦場に立つジェネラルは静かに目を閉じた。

「師長、すみません。この馬鹿を一晩ここで預かってもいいですか?」
 用意されたカルテに速水の名前や症状を書き込みながら、田口は気難しい白石師長に尋ねた。
「仕方ありません。速水先生がここがいいとおっしゃるのですから、無下に断るわけにはいかないでしょう」
 と言いつつも、師長の顔がにやけかかっているのを、田口は見なかったことにする。どこに行っても、速水のもて具合は半端じゃないのを突きつけられる田口。今更、それで心が乱されるわけではないが…。気になるのは確かだ。
「はあ。そんなに気を遣う必要はないと思いますが、ここが駄目ならもともと所属している外科病棟に押しつければいいだけで…」
「そうしたら、そこで田口先生がいないって大騒ぎですよ。救命救急センター部長の望みを無視できる人物は、外科でも教授クラス。当然、外科から田口先生の要請が来るでしょう。そうなった時、田口先生が当直のうちの病棟はどうなるんですか?」
「…確かに」
 先ほどまでの速水を考えると、オレンジすらいやがったのに天敵がいる外科におとなしく入院するとは思えない。絶対に騒ぐ。だとしたら、初めからここに置いていた方が害は少ない。と、田口は結論づけた。
「他ならない速水先生のわがままですから、誰も文句は言わないと思いますよ。ですよね、医局長?」
「もちろんです。異論なんてあるわけないじゃありませんか」
 師長の有無を言わせない迫力に、今まで放置されていた兵藤は大きく頷いた。見てはいけないものを見た。その目はそう語っていたのを、白石師長は見逃さなかった。
「それじゃあ。速水先生の担当は田口先生で」
「はあ…」
 この場合、自分しかいないのは分かっていても、速水に絡まれる姿だけは同僚に見られたくないのが、田口の本音。だけど、それを速水に言っても、ここのスタッフに主張しても無駄なような気がする。
「わがまま三昧の速水部長を大人しくできるのは、田口先輩しかいないじゃないですか。風邪かどうかの診断は速水先生の方が得意でしょう。それに佐藤先生もあの勢いでは毎日、往診に来そうなので大丈夫でしょう」
 田口は周りに言いくるめられた気もしないでもないが、仕方ないと諦めた。

「まったく鬼の霍乱とはこんなことだろうな」
 田口の手を握っての速水の寝顔は、田口にとっては見慣れたものだ。しかし、それは極楽病棟のスタッフにとっては初めて体験するものだった。眠る速水は普段の冷徹な雰囲気はなく、穏やかな寝息を立てている。長い睫毛、日に当たることが少ない肌の白さ、長身のため、あまり近くで見られない端整な顔が無防備に晒されていた。
「黙っていれば、鑑賞に値するんだが…」
 明日になれば、廊下トンビがここで見たことをあちこちに言いふらすんだろうなぁ。と思うとうんざりする。それが回り回って、病院長の耳に入れば、また、無理難題を押し付けられかねない。
 まあ、そのときは速水も巻き込んでやる。
 そう密かに決意すると、田口は速水の前髪をそっと掻き上げた。

 * つづきます。

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    と言うわけで、リクエストの前編になります。
リクエストの②神経内科病棟に入院させられて、おうちでの看病がなかったお話です。
これって、うちの同僚がネタになっています。普段元気な人は…ですが。この後、将軍の入院生活が暴露される?
平成21年3月16日(月)  作成 
平成22年7月25日(日)  一部改訂
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