愛は無敵、知らぬが仏(将軍×行灯) 本文へジャンプ

「行灯、これ何だ?」
「何って、甜茶」
 速水は湯飲みにつがれたお茶もどきに顔をしかめた。
「それは分かったけど。なぜ、今、甜茶?」
「いや、花粉症の季節だから…」
 あっ、そう。と単純に頷けないのが、外科医の性。
「意味が分からんぞ。誰が花粉症なのか、よければ教えてくれないかな。俺はそのあたりは未熟なもんで…」
「別にうちに花粉症の患者がいるってわけではなくて。甘い味が好きな速水にいいかなぁっと思っただけ」
 はずれだった? と、目で尋ねる田口に、速水は可愛すぎると年甲斐もなくときめいた。
「いや。まあ、嫌というほどじゃない」
「だろ。だったら、今日からこれオレンジに持って行けよ」
 そう言って、田口が速水に見せたのは水筒。怪訝な顔をする速水に、田口は真剣な目を向ける。
「だって、お前、甘いのが好きだから、チュッパチャプスなんかをくわえているんだろ? でも、甘い飴って食べた後、のど渇かないか? で、また、飴をなめて口の中を潤そうとする」
「まあな、一理ある」
「だろう。だけど、いつも飴なんかくわえていたら、将来、総入れ歯になる可能性が高くなるじゃないか。忙しくて、食事も摂れないオレンジだろう。歯みがきなんて、食事以上にできないだろう。だから、甘いけど歯に優しい甜茶を飲んだらどうかなと思って…」
 だめ?と心配しているの。の二段構えで田口に迫られた速水は、救命救急センターでのジェネラルの姿はどこへやら、愛妻にデレデレのただの男に成り果てる。
「じゃあ、今日からこれな」
「水筒にしては、少し小さくないか?」
「うん。マイ・ボトルって言うらしい。マイ・箸、マイ・カップ、マイ・バックの延長みたいだね。ペットボトルの空を減らしましょうという趣旨で生まれたって聞いたけど」
「ふーん」
 速水は本日の食事当番である田口の説明に、納得の相づちを返した。確かに、世の中はエコを叫んでいる。使い捨ての時代は終わり、リサイクルの時代なのだ。病院ではあまり期待できないが。
「で、無くなったら、どうしたらいいんだ?」
 意地悪を言うのは、田口に構ってもらいたいため。
「うちの病棟に作り置きしてあるから、貰いに来たらいい」
「極楽病棟に?」
「うん。うちの患者さんたち、結構、花粉症で悩んでいる人多くて。で、薬を飲むほどじゃない人には、甜茶が配られているんだ」
 なんとも、ほのぼのした病棟だ。息も継げない救命救急センターとはえらい違いだ。でも、嫌いではない。
「んじゃ。遠慮なくもらいに行く。お前がいなくても、別にいいよな」
「ああ。主任や師長には俺から話しておくよ」
 速水が来るのを極楽病棟と言えども、拒否するはずはない。何しろ、速水はいい男だ。いい年した主任すら、速水に病棟で会ったのを自慢する。それぐらい速水の知名度は高い。オレンジ新棟が強大な赤字を生産しまくっていても、そこで働く救命救急センターには敬意が払われている。
「助かる。…実はこの前の健診で指摘されたんだ」
 厚生労働省に勤務の軽減と改善を主張してもスルーされる医療現場も、健康診断だけは義務づけられている。いつでもいいからなどと曖昧にしていたら、受けないままに放っておく医療関係者が多いため、去年から診療科ごとに医学部も合わせて、日程を決められた。田口もつい二週間ほど前に、神経内科病棟、教室関係者と一緒に付属病院の検査室あたりをさまよった。
「何を?」
 田口の結果が出ていないのに、その後に受けた速水の結果が早く出るとはどういうことか? 嫌な感じを押さえつけながら、田口はさりげなく尋ねた。
「血糖値と歯槽膿漏の危険性」
 緊急の病気が見つかったわけではないのにほっとしつつも、田口は長年、救急現場で酷使され続けた速水の肉体が、悲鳴を上げ始めているのを感じた。
「まあ、妥当な線だな。これで若くないのが、少しは身に染みただろう」
 当然の結果と言わんばかりの田口に、速水は頷くしかない。
「行灯くんを泣かせないよう、自己管理に注意します」
 それしか言いようのない速水はぶっきらぼうに言い残して、食べ終えた食器を持って立ち上がった。食器洗い機に茶碗や箸、皿などを入れながら、今日の夕食もあまり凝ったものは期待できないなと思う。のほほんと生きてきたらしい田口は、出世欲もなければ食欲も乏しいと、速水は思う。連続当直記録を持っていても、スカイ・レストラン『満天』の全メニュー制覇など考えもしない。食べられればいい。ずぼらすぎる奴だとは学生時代から思っていたが、ここまで執着心がなくなっていいのか? しかも、神経内科という診療科でなぜ夜中まで残っている必要がある?
 なので、速水は同居(同棲とも言う)するに当たって、家事の分担を無理矢理決めた。当初、田口はどうでもいいけど…な態度でいたが、速水の激務の現実を突きつけられ、自分から家事をするようになった。ぎこちない手つきで作られた食事は決して褒められるものばかりではないが、彼なりに考えてのことだと分かるので、速水は感謝こそすれ、文句を言ったことはない。
「帰りにスーパーに寄っていかないか? 夕飯のメニュー、決まってないだろう」
 同じように食器を食器洗い機に入れている田口に声を掛ける。
「そうだな」
「だったら、いつもの時間にな」
 速水は言い終えると、着替えのためにキッチンから自室へ向かった。残された田口は夕食メニューに頭を巡らす。
 血糖値って、やばくないか?
 不規則な勤務に拍車がかかっている救命救急センターの忙しさは、田口の想像を絶しているに違いない。かといって、野菜づくしにしたら文句が並ぶのは必至。今度、病院の栄養士に頼んで、血糖値対策の献立とレシピを作ってもらおうと、真剣に田口は考えた。
 今日の朝食メニューも実は病院の栄養士に立てて貰った。真剣な顔で栄養士に相談したら、快く一ヶ月の献立とレシピを用意してくれたのだ。報酬はなぜか速水の感想。それに、ちょっと引っかかりを感じたが深く追求するのは敢えて無視する。
 そうしないと、速水と自分の関係が気になってどうしようもなくなりそうで怖い。以前、速水に尋ねても、そうか? 別に何も感じないが…。お前、それって被害妄想じゃないのか?などと一笑にふかされてしまった。同様に、藤原看護師にもため息混じりで婉曲に訴えたが、同じようなコメントしか返ってこなかった。
 やっぱり、周りの意味ありげな視線は気のせいか。
 納得できないまでも、田口はあまり気にしないようするしかなかった。しかし、背に腹は代えられない。おかげで、この一ヶ月、田口はそれなりにつつがなく食事当番をこなしていた。
 そんな田口の一生懸命さが速水は愛しくてたまらなかった。救急車が来ると、一瞬にして救急現場へと意識が向くが、それ以外では田口を思わない時はない。なので、院内自由度無限大のわがまま速水は田口を見かけると、嬉しくて目で追いかける。特に声を掛けるわけではなく、ただじっと見る。その姿が見えなくなるまで、速水は自分が切なさと愛しさを垂れ流した目で、田口を見ているとは気づかずに。
 だから、誰も表だって口にしない。しないけれど、薄々二人の関係に気づいていた。しかも、その裏で、高階病院長と藤原看護師の暗躍があっていると知っているのは、当の二人が所属する診療科以外の部署だった。
 まあ、行灯が気づかなければ、裏でどんな取引が行われていようが、俺には関係ない。一生、気づかないよう予防線を張ってくれるなら、ここに骨を埋めてもいい。
 そう病院長に宣言した速水だった。あくまでも、自分本位なジェネラルである。

「佐藤ちゃん。帰りに売店から、ノンカロリーでキシリトール100%のキャンディ買ってきて。代金は後払いするから」
「ノンカロリー? キシリトール入り?」
 休憩を取ろうとした佐藤は怪訝な顔で、救命救急センター部長室の椅子にふんぞり返った上司を見た。何があったんだ。晴天の霹靂。はたまた、鬼の霍乱。
「入れ歯の俺は嫌いなんだと、ついでに、メタボの俺も嫌だとさ」
 佐藤は恨めしそうな速水の様子に、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。速水のそんな姿を、どうしても佐藤は想像できない。だが、言った人の想像はできた。というか、一人しか思いつかない。スピードスターの速水が息つく暇もない合間を縫って、会いたがる相手。不定愁訴外来責任者という肩書きのとおり、穏やかで優しそうな雰囲気をまとった神経内科教室の講師。よれよれの白衣にぼさぼさの髪をしているが、まるで、タンポポのようにどこか温かい。どんな悩みも愚痴も、じっと聞いてくれるような安心感を佐藤はいつでも感じていた。同じ科の兵藤医局長と懇意なので、田口の話は自然と耳に入る。出世欲や名誉欲のない田口らしいエピソードに、佐藤は速水と同じものを感じていた。両極端の位置にいるような二人だが、患者のためなら全力で戦うという姿勢に佐藤は敬意を抱いていた。
「それは世の中の妻一般において、当然の思いだと思いますが」
 独身の佐藤には妻たる人物の気持ちはよく分からないが、逆を考えれば、容易に答えは見える。速水も心配されるのが嫌なはずはないだろう。自分の両親を思い出しながら、佐藤は将軍の返事を待った。
「ふん」
 コメントなし。だが、佐藤の言葉に喜んでいるらしい雰囲気だけは、しっかり将軍から垂れ流されていた。
 相変わらず、ラブラブでいいですね。
 佐藤はそんな嫌みの一つも言いたくなるが、言うだけ無駄だと分かっているのでぐっと堪える。言ったが最後、それこそ延々と惚気を聞かされるのだ。よもや、オレンジで速水がそんなことをしているとは知らない田口に、佐藤は深い同情を寄せる。
 オレンジ新棟一階での暗黙の了解。そして、絶対他言できないタブーな話題。こんなことにまで、“将軍の近衛兵”たちの結束は堅い。
 知らないってことが、どんなに幸せか。速水に熱を上げている他の科の看護師や患者などに、事実をぶちまけたい。佐藤はこの年になって、”王様の耳はロバの耳”の童話が身に染みる毎日だった。

                    Copyright©2009 Luna,All Rights Reserved
    甜茶は私の春の定番お茶です。花粉症じゃないけれど、なかなか体調にはいいので、毎日煎じて飲んでいます。
もちろん、マイ・ボトルをもって職場へ行きます。
 平成21年3月22日(日) 作成
平成21年3月28日(土) 掲載
平成21年4月2日(木) 一部訂正
inserted by FC2 system