スーパー・ドクターの道は遠い 01  本文へジャンプ
「新名先生、先生の専門は何ですか?」
「私ですか? 脳神経外科です」
「黒田先生は?」
「麻酔科です。新名先生や速水先生と違って、私は救急救命医ではなく、この救命救急センターに所属する麻酔科医です」
「え? みんな同じ仕事をしているから、みなさん、救命救急医じゃないんですか?」
 小柄な女性が不思議そうな顔をして、黒田を見た。
「それが違うんだなぁ…。新名先生は脳外科出身の救命救急医でオレンジ所属。同じように、私や新名先生、速水先生、佐藤先生、長谷川先生、和泉先生なんかもこの救命救急センター、部署で言えば救急部に所属しています。
 原口先生は臓器統御外科の心臓チームから派遣されている外科医なので、所属は臓器統御外科。麻酔の佐藤先生も麻酔科からの派遣なので、所属は麻酔科に。そして、山下先生は後期研修医なので外傷外科コースのレジデント。だいたいこんなメンバーが揃っています。
 その他に、外科のローテートで来ている初期研修医が数名。普段は病棟や大学に籠もっている小児外科専門医や整形外科医、呼吸器外科などもいます」
 所属医師の全員の名札が提示されたボードを指して、黒田が説明する。
「そんなにたくさんの医者がここにはいるんですね」
 女性の感心した声に、黒田は彼女の首に掛かっているIDカードを見る。サクラテレビのディレクター、小松和美と書かれている。
「ええ。ここは救命救急センターなので、一刻を争う患者さんしか来ませんし、基本、全てが救急車かヘリコプターによる搬送です」
 にっこり笑いながら、新名がさりげに凄いことを口にする。あまりにも、その言い方が普通だったので、小松は意味がつかめなかった。
「国の規則で、救命救急センターは365日、24時間体制で、初期救急医療施設と二次救急医療施設からの救急患者を断ることなく受け入れることになっています。どんな状態の患者をも受け入れ、対応するにはどうしても専門医が必要となります。脳や小児、産科などはその典型です」
 世間一般の人たちは救急車で運ばれれば、最善の治療が受けられると思っているようだが、オレンジのような救命救急センターなら、重大な疾患の見逃しはほぼないが、研修医の救急当直やレジデントによる夜間救急外来の場合、見落としが十分にあり得る。また、専門医に至っては自分の専門以外の疾患となると、研修医レベルという医者もいる。要は“頭が痛いんです”と言う患者に対して、脳疾患? 偏頭痛? 風邪? 緑内障? CO中毒?などと考えられるかということだ。
「重症患者はひとりで多くの症状を示している場合が多い。意識がない。心肺停止。多発外傷など。だから、ここでの治療は全てチームで行う。しかも、複数の受け入れを可能にするには、多くのスタッフが必要になる」
 低くてよく通る声が響き、小松ディレクターは振り返った。そのまま、彼女の動きが止まる。医局の入り口に立っているのは、ここでは見慣れた術衣に真っ白の白衣を纏ったたいそう端整な男だった。決して若くはないが、中年というには若々しい。ピンと張り詰めた孤高の凛とした雰囲気が、男の美貌を知性に裏付けられた自信となって外に溢れていた。
 誰? こんな人がここに居るなんて…。
「速水先生、お疲れ様でした。で、くっつきました? 腕」
「取りあえず、つけた。腕はやっぱりあった方がいいからな。リハビリに励めば、ほぼ元通りになるだろう」
 表情も変えずに、当然のように白衣の医師が答えた。小松は、“速水”という名前を聞いて、事前に挨拶と趣旨の説明に来たとき、会えなかった救命救急センター部長の名前を思い出した。付属病院のパンフレットに写真が載っていたはずだが、これほどの美貌だと忘れるはずはない。それぐらい、速水晃一は目を引いた。
「それは良かった。で、その若者はどこに?」
「ああ。整形外科が引き取ってくれた」
 にっこりの速水。だが、黒田や新名は速水が整形外科病棟に患者を押しつけたと気づいた。その辺りが速水がジェネラル-将軍-と呼ばれる所以でもある。が、どのみちオレンジで診断がつき、容態が落ち着いたら、患者はそれぞれの科に引き取って貰う。救命救急センターは救急搬送された患者の初期治療を行うところだ。
 速水は早朝に運ばれて来た切断しかかっていた腕を6時間以上かけてつないだ。さすがに、当直後の疲労の色は隠せない。それでも、すたすたと歩くと、医局の隅にセットされているコーヒーメーカーから、マイカップにコーヒーを入れて、どさりとソファに座った。
「…新名。長谷川たちに研修医が書いたカルテをチェックしておくように伝えとけ。転科させた所から、記入不足と俺にクレームがあった」
 いかにも面倒だと速水は全身で主張する。が、そこは患者第一の速水だ。直ぐに、PHSで師長の花房に連絡して、ICU入院患者のカルテを用意させた。
「これがICU入院のカルテです」
 花房が10冊のカルテを抱えて、医局に来た。
「ああ。ありがとう。そこに置いておいて」
 自分が座るソファの前にあるテーブルを速水は指すと、ごろりとソファに寝転んだ。花房はそんな速水をちらりと見ると、黙ってカルテを置いた。それから、軽く会釈をして、医局を出て行った。それを見送った新名はカルテを一冊取り上げた。ばらばらと捲ると、次の一冊へ手を伸ばす。
「どうだ? 所見抜けや検査の記録漏れはないか?」
「今のところ、ありませんね。抜けているところのには、和泉や山下、長谷川らがきっちり書き込みのフォローをしています。クレームの内容は何だったんですか?
「局所麻酔薬アレルギーのキシロカインが書かれていなかったということだった。三日前に吐血で運ばれて、内視鏡をして消化器外科に送った白石さん。あっちで再度、内視鏡を行おうとしたら、局所麻酔薬アレルギーがあると言ったらしい。
 でも、うちから送ったカルテには内視鏡検査の際に、何の局所麻酔薬を使ったのか書いてなかったから、日程を変更する羽目になったとのことだった。
 まっ、佐藤ちゃんが対応したから。うちじゃ、意識不明で運ばれた患者では本人からアレルギーについて聞き取れない場合が多いことと、局所麻酔薬はキシロカインが原則というのをしてもらった」
「佐藤先生もお疲れでしたね。いくら元自分の部署とはいえ…」
 黒田が本日休みの佐藤を労る。
「でも、仕方ない。ここじゃ、急性期を脱したら、他科に転科だからな」
 速水はシニカルに笑うと、左手にペンを持って、そのままの格好で自分が見たというサインをカルテに入れる。さすが将軍、速水の元で鍛えられているメンバーだ。激務の間にきちんと、研修医を見ていた。
「そう言えば、近々、研修医に対する指導評価会議があるんだった。事前研修会の資料、どこやったっけ…」
 新名が慌てて、自分の机を探し始める。
「うちの研修医が優秀でも、油断は禁物だ。慣れてきた頃が一番危ない。あいつらはぺーぺーだというのを、忘れたらダメだ。まずは、基本の基本を叩き込まないと、後々で大変なことになる。ここでのミスは即、患者の死に繋がる」
 行灯に会いたいと思いつつ、速水は天井を見つめる。彼の田口なしの我慢も、そろそろ限界になりつつあった。
「あの…、ミスって、どんなものか。具体的に教えていただいてもいいですか?」
 聞き慣れない声に、速水は誰だ?と物憂げに首を回した。
「サクラテレビのディレクター、小松和美と申します。こっちはカメラマンの山口です。今日は全国でも数少ない救急車のたらい回しがない桜宮市の救急医療の取材に来ています」
「サクラテレビか。そんな話を高階さんがしていたな。
 ひとつ誤解がないように言っておくが、たらい回しが無いのは、ここが命を救う最後の砦だからだ。失われそうな命をつなぐために、ここは存在している。桜宮市の重症患者しか、ここには運ばれないし、運ばない。軽症の患者は開業医、中程度の患者は市民病院など数カ所で、重症の患者のみオレンジにというのが、市民に浸透しているほかにならない。
 で、先ほどの話に戻ると、一年目の研修医の特徴は、情報の取捨選択が苦手。様々な医学的なものを含めた記憶量が少ないため、色々な面で不確実。予測できる範囲が狭いため、決心がなかなかつかない。自分が動こうとする際に、外からの割り込みによって、手順が遅れる。手遅れの状態になって気づく。そして、様々な操作が遅れて、円滑さを欠いて慌てる。
 こういった研修医の特徴を、上級医などがきちんと把握していれば、研修医への指示を明確に出せるし、目を配れる。
 ここで起きやすいミスは、重症患者を複数受け入れた場合、検査オーダーの患者名の誤りや検体の取り違いなどだ。患者の意識が無いから、本人に名前を確かめられない。同じ姓の人間が搬送された場合は、腕と足にネームタグを付けて区別する。他に、薬の量や用法などのミスも起こりやすい」
「過去、そのようなミスが起きましたか?」
 ずいぶん、ぶしつけで失礼な質問をするのだなと、速水は思う。
「いや。そんなミスを犯すようなスタッフは、ここにはいない。いたら、その場で退職させて、再教育に回す。だから、うちのスタッフはどんな重症患者でも、複数の受け入れが可能だ」
 速水は自信に満ちた目で、真っ直ぐ小松ディレクターを見た。
「ただし、そのために日夜、労働基準法無視の生活が続いている。なので、医師の勤務態勢を、二交代から看護師と同じように三交代制に変えようかと考えてみたが、夜中の出勤は嫌だという声が多かったので、今後の検討課題にすることにした」
「二交代は大変ですよね」
「ああ。でも、ここに運ばれた患者は命を取り留めても、いつ急変するか分からない状態が続く。当然、担当医はそのまま様子を見るため、容態が安定するまで院内に待機する。そうするうちに、次の患者がやってくる。
 そうやって、和泉なんか。三日、家に帰っていない。長谷川も家に帰れず、病院と俺の自宅で食事をする日が続いている。因果な商売だ。だが、そうしないと、救急医療の現場は維持できない」
 シニカルに速水は笑うが、それを目にした小松は頬を染めた。それを見た速水は、やっぱり行灯の方が可愛いと、腐った妄想に浸っていた。
「でも、そんな先生たちのおかげで、桜宮市は『たらい回し』のない全国でも数少ない街なんです。それって、本当に凄いことだと私は思うんですが、誰も評価しないんですよね。当の桜宮市民も、自分たちがどれほど恵まれた環境にいるのかを知らないんです。他の県での“たらい回し”のニュースを見るたびに、桜宮市を見て欲しいと思いました。それがきっかけで今回、救命救急センターの取材をしているわけですが…」
 小松は速水に意気込んで、話しかける。彼女の頭の中には、こんないい男がこんな所に埋もれているなんてもったいないがリフレインされている。映像には花がいる。視聴者の目を引くような存在が必要なのだが、ドキュメンタリーのような現実問題を扱うときは難しい。しかし、目の前にいる医者は違う。街中を歩けば、彼とすれ違う10人のうち10人が女性なら、全員が振り返ると言えるほどの美貌だ。それも知性に彩られた美しさだ。しかも、ガリ勉医学おたくなどの雰囲気などみじんもなく、外科系医師に向いたしっかりとした体格をしている。
 その辺のジャリタレなんて目じゃないわ。医療ドラマの俳優以上の色男じゃないの。確か、今年の初め、この人をモデルにしたドラマが全国放送されていたわ。あれを見たときは、あんな天才救急医なんているわけ無いと思っていたけれど、いたわ。何で今まで気がつかなかったのかしら。灯台もと暗しってこのことだわ。
 東城大学医学部の伝説の“ジェネラル・ルージュ”速水晃一。小松も噂には聞いていたが、本物が持つ圧倒的なカリスマ性には、見とれるしかなかった。
「だけど、オレンジは常に赤字だ。命を救おうと、券面に処置をすると、その分、金も掛かる。しかし、それを全部患者に負担させるわけにはいかない。となると、費用は病院負担になる。命は何よりも重いと言うが、金がなければ、救える者も救えない。それが現実だ」
 そう少し強い口調で言うと、速水は立ち上Iがった。すらりとした長身に美貌の外科医である彼は、あまり自分の容姿には頓着していない。二杯目のコーヒーをマイカップに入れると、ちらりとICUから送られるモニターに目を向けた。
 そこに研修医が固まって医局に戻ってきた。和気藹々と笑顔でいた彼らから、一瞬にして笑顔が消え、緊張が走る。
「研修医、ホットラインの対応の基本は?」
 医局のソファに座ったまま、速水はぐるっと顔を回して尋ねた。
「まず、受け入れの可否を伝えます」
「次は?」
「救急隊からの情報を正確に受け取る」
「……」
 速水はちらりと視線を外へ向けた。
「意識、呼吸、脈拍、血圧、SpOなどの生理学的評価で重症以上と判断された場合、救命救急センターに搬送という概念が救急隊にあるので、最初の通報から必要な物を準備する」
「具体的には?」
「酸素、モニター、静脈ライン、輸液、エコーやポータブルX線、吸引など」
 てきぱきと研修医たちは答えていく。さすが、救命救急センターで初期研修を受けようというだけのことはある。
「じゃあ、何でそれが必要なのか考えながら、行動しているか? 流れ作業のように、患者が運ばれてくるたびに“点滴、採血、CT!”って指示していないか? 検査結果が出てから考えようとすると、必要のない検査をして、患者も病院も迷惑する。
 忙しくても、どんなに急いでいても、自分の判断の根拠を説明できるようにしておく。そして、それは必ず、カルテに記録しておくが大事だ。
 外傷初期治療評価の流れぐらいは、当然、把握しているよな」
「あっ、はい…」
 少々、頼りなさげに返事をしたのは、一年目の研修医。速水は機嫌を壊すことなく、
「まっ、心肺停止が来たら、酸素、IV(静脈ライン確保)、モニター、バイタルチェックと唱えとけ」
と笑った。何とも、アバウトな指導だが、役に立たない医者はオレンジでは邪魔になる。かと言って、研修医を放り投げるわけにもいかず、スタッフは毎年、苦労している。幸いにも、今年は二年目研修医が状況を判断して、後輩をうまくまとめているので、ミスなどは起きていない。
「俺もお前らを大学から預かっている以上、重症度を見極められるぐらいには育てたいと思っている。が、ここじゃあ、“on the job training”を体験させたくても、怖すぎてできない。なので、“off-the job training”に励んで貰わないとな。
 で、黒田ちゃん。先日、講義して貰った羽場さんはどうだった?」
「元チーム・バチスタのメンバーですからね。酸素飽和度モニター、心電図モニター、輸液ポンプ、Swan-Ganzモニター、人工呼吸器などを詳しく説明して貰い、私も勉強になりました」
「それは良かったな。後はFASTの使い方と限界なども伝授しておけよ。多発外傷じゃ必需品だからな」
 速水はごろりとソファに寝転がると、黒田にウインクした。
「あと、除細動器の使い方もまだなので…。機械の種類から教えないと…」
「そうだな。DC(direct current shock:除細動のこと)はここじゃ、箸よりも普通に使うからな」
 珍しく速水は救命救急センターの医局でごろごろしていた。さらには、ソファの前にあるテーブルの上から、あられを摘んで口に放り込む。大学の講義や会議などで大忙しの速水が、カンファレンス以外で医局にいるのは田口を拉致してきたときか、何かを食べているときだった。
 もっとも、部長室には休憩を取るような場所はないし、書類の山が速水を待っている。あんなのに時間を割くぐらいなら、患者と向かい合いたい。そして、時間があれば、田口がいる愚痴外来に行ってまったりする…。
「明日、時間があれば、エコーの検査しよっか。研修医も含めて、“俺のエコー術自慢”でもするか」
 速水はにっこり、ICUから医局に戻って来た山下に声を掛けた。
「そのタイトルは止めましょうよ。速水先生のひとり舞台になりそうなんで…」
 すかさず反対したのは、研修医と共に医局に戻って来た救命救急医の長谷川だった。
「長谷川…。お前はエコー専門じゃないからなぁ。まあ、明日、佐藤ちゃんが来るのが楽しみだな」
 佐藤は消化器外科のスペシャリストだ。そのため、エコーも手慣れている。様々な検査機器が現場に導入されてから、飛躍的に診断材料が増えた。しかし、それを使いこなすには、やはり、練習が欠かせない。
「佐藤先生はエコー、うまいですよね」
 長谷川が少し悔しそうに言う。
「まあ。佐藤ちゃんは消化器外科出身だからな。明日は佐藤ちゃんを指導医にして、全員でエコーの練習だ。頭部CTとMRIに関しては、長谷川と新名が仕切れよ」
 あくびをかみ殺しながら、速水は長谷川を見た。
「ところで、研修医諸君。除細動器を使っての“除細動”と“カウンターショック”の違いは?」
 ジェネラルご機嫌と、研修医が喜んだのもつかの間、切れ長の目が笑っていないのに気づき、研修医の背がぴんと伸びた。
「DCとカウンターショックが同じとは、もはや思っていないよな。諸君」
「…もっ、もちろんです」
 どもったような研修医の発言に、速水はにやりと笑った。
「新名、黒田。研修医諸君は除細動とカウンターショックの違いが分かっていないようだから、まずは心マッサージをマスターさせろ。それが免許皆伝になってから、除細動の練習だ。オレンジにいるんだから、それぐらい完璧にマスターしとけよ」
 まったく、あの行灯だって、心マぐらいうまくできるに。ぶつぶつ。速水のぼやきは研修医にはようやく聞こえるレベル。だから、一年目の研修医が顔に、行灯って誰?と書いても誰もコメントしない。したら最後、ジェネラルが壊れるのが分かっているので…。
「ああ。行灯に会いてぇ…」
 速水がソファで身悶える。田口に関して、我慢というのを持ち合わせていないはずの速水が医局にいること事態が、これから嵐が来るのを予感させる。ひとしきり、行灯とぼやきつつ、悶えていた。しかし、自分を唖然と見る小松と研修医の視線に気がつくと、クッションを抱いたまま、相変わらず怠惰な様子のまま、
「カウンターショックは頻脈性の不整脈に行うやつで、T波の上に電気ショックが落ちないよう同期スイッチを入れて使う。で、除細動は心室細動の細動を取り除くために、同期させないで電気をかけることだ。そして、除細動するときは必ず圧を掛ける必要がある。だから、パドルはしっかり持つのが基本になる。とまあ、ぼつぼつやっていこうか」
と医局のメンバーを眺めた。
 採血やエコーなどは研修医同士で練習できるが、さすがに、除細動はできない。ましてや、生死をさまよっている人相手に、研修医に除細動器を使わせるのもチャレンジャーだ。しかも、除細動器には単相式と二相式があって、それぞれの電気量が異なる。さらに、これがカウンターショックになれば、さらに異なる。なので、間違った操作をすると、動くはずのものも止まってしまう。
 なので、オレンジの研修医は、これは心臓系だと思ったら、循環器科医にコンサルテーションするよう指導されている。最も、速水と原口がいれば、この二人でことは足りる…(ちなみに、脳は新名と藤本と長谷川がいる)。が、彼らが将来、東城大学獣医学部付属病院救命救急センターではない病院に就職した場合、救急外来、もしくは北米型ERに行った場合は、必ず、専門医へのコンサルテーションをする場面が出て来る。そのための練習として、循環器科のみのコンサルテーションを体験させていた。
 このコンサルテーションも、研修医にとっては冷や汗だ。ちなみに、コンサルテーションとは、上級医や各専門科の医者に相談をすることだ。医者なら誰でも通る道だが、誰でも一度は辛い目に遭う。
 研修医は、給料の八割は「八つ当たり料」だと言われる…。研修医からすれば、あんまりだろうと愚痴るしかないが、夜中に研修医からの意味不明のコンサルテーションでたたき起こされる上級医にすれば…である。
 とかく、医者の世界は体育会系のようなシステムがあるようで、ないような。通常の診療科では、10年目以上のいつも寝不足で疲れ切っている上級医、3~5年目の上下に挟まれて疲れ切っているレジデント、何をしでかすか分からない研修医という組み合わせになっている。平日の日中(たいてい9:00~17:00)は、このメンバーが揃って、病棟の仕事を行っている。そして、当直になると、上級医がいるとは限らない。なので、研修医は困ったとき、泣く泣く?上級医にコンサルせざるおえなくなる。
 しかし、オレンジでは24時間診療を行うため、常に上級医、レジデント、研修医(一年目、二年目)が揃っている。それはある面、幸せだと言える。しかも、上級医と呼ばれるレベルの医師は、その道のプロフェッショナルと言われている人物ばかりだ。

「じゃあ、レディ・アンの出番ですかね」
 黒田が呟いた。
「そうだな。後でレディ・アンを呼びに行くか」
 速水も呟く。
「あの…レディ・アンって?」
 今まで黙って、医者の会話を聞いていた小松が、恐る恐る速水に尋ねる。
「レディ・アンは美人だな。金髪にブルーの瞳。彼女が来ると、オレンジが華やかになる。が、見かけによらず、スパルタが大好きときている」
 速水の説明に、小松ははあ?である。
「速水先生。ちゃんと、説明しましょうよ。レディ・アンは救命に必要な手技の練習をするために作られた人形です。除細動から、気管挿管、心臓マッサージ、人工呼吸器の取り付けから管理まで、本物そっくりに練習できる優れものなんです。ここの研修医にとっては、まさに救世主、ジャンヌ・ダルクですよ」
 くすくす、黒田が笑いながら、小松に説明した。
「ああ。そうなんですか。私、てっきりブートキャンプのビリー隊長のようなマッチョな人が登場するのかと思ってしまいました」
「確かに…。速水先生の言い方ではそう思っても仕方ないですよ。医者と言えども、最初は医学的知識があるだけで、その辺の人と全く代わりません。なので、医者に必要不可欠な手技はひたすら練習を積んで、実践するしかありません。当然、ある程度の力量がつかないと、指導医がオッケーを出さないので、みんな必死ですよ。
 そうやって、我々外科医は自分を磨いてきました。
 ちなみに、レディ・アンのお値段は、一体250万円。ここオレンジには二体あるから、しめて、500万円なり」
 それでも、ここにある機械に比べると安い。高度な医療を提供するためには、高度な医療機器が必要になる。それらは半端じゃない値段がする。数千万から数億なんて当たり前。島津が扱うMRIなんて、数十億のレベルだ。
 以前、速水が熱望していたドクター・ヘリも、東城大学医学部付属病院救命救急センターに導入されて久しいが、それも初期導入には一機、5億円かかった。年間維持費は2億円。ちなみに、現在の運行状況は年間100件に満たない。が、近隣の市町村からの依頼も多く、市外からの利用については、その運航費の一部を出動回数に応じて、一部負担して貰っている。この辺はさすが腹黒病院長、抜かりはない。しかも、へりとフライト・ドクターは医学部で待機している。普段の彼らは大規模災害時に出動する特殊な部署、災害派遣部に所属している。(ちなみに、、隣の獣医学部付属病院救命救急センターにもドクター・ヘリがある。速水にしてみれば、動物のくせになんて贅沢な!だが…)
 よって、速水たちがヘリに乗って現場に行くことはなく、ヘリで運ばれて来た患者をオレンジで引き継ぐようなシステムになっている。これはある意味、とても効率がよい。専門のフライト・ドクターから逐一、オレンジに患者の報告が入るため、待機する方も準備がしやすく、専門医の確保もしやすい。
「そんなにして育てても、救急医になる人は少ないというのは、本当ですか?」
「ああ。救急医は勤務は過酷だし、救命できなければ、医療ミスだと言われる。それが分かっていて、救命救急医になると、あなたなら言えますか?」
 速水の口調が変わる。
「それは…」
「それが現実だ。それでも、数多くの救えたはずの命の犠牲で、厚生労働省がようやく腰を上げた。おかげで、我々のモチベーションは何とか繋がっている。
 これ以上、我々を責めるのは止めて欲しい。でないと、この国の医療はいずれ崩壊する」
 小松は背筋に寒気が走るのを感じた。この人には未来が見えるのだろうか。そんな思いが彼女を包み込む。
「最初に説明したように、私たちはオレンジ新棟を責めるつもりで取材しているわけではありません。桜宮市がどれほど恵まれた所なのかを、もっと世間の人たちに知って欲しくて…」
「分かった。編集が終わったら、一度、見せて欲しい。内容によってはオンエアを認めるわけにはいかない」
「それは十分承知しています。病院長からも伺っていますので、事実を正確に報道するつもりです」
 一歩引いた小松の言葉に、速水は取りあえず許可するという顔をした。
「じゃあ、取材を頑張って」
 そう呟いて、速水は目を閉じた。まぶたに浮かぶのは、恋人の姿。当然、心の中では、“行灯に会いてぇ”がリフレインしている。そこに、速水のPHSが鳴った。
 コール音4回目にして、速水は面倒くせぇとぼやきつつ、胸ポケットからPHSを取り出して、画面を確認すると…。やおら、態度が豹変する。
「どうした? 紙で指でも切ったか? それとも、狸に踊らせられたのか? 
 いや、こっちは平和。仕事しろって? してるぞ。深夜からさっきまで、切断しかかった腕をつないだぞ。
 で、こっちに来るなら、何か土産を持って来いよ。そうだなぁ…。いっそ、クレームが来ない家族対応のコツとか。面倒? お前、後輩に対する愛はないのかよ。だろ? んじゃ、待ってるよ。ハニー♥」
 上機嫌でPHSで話補する速水に、小松は目が点。妙に場違いなうきうきオーラが発散される救命救急センターの医局。しかも、速水の会話はほぼプライベートと言うより、業務連絡。
「山下。研修医を全員、15分後にカンファ室に集めろ。リスクマネジメント委員会、委員長のミニ講義開催だ」
「はい」
 山下はすかさず返事をすると、直ぐに席を立った。黒田は“田口先生の登場かぁ。…ジェネラルには何よりのカンフル剤だ”などと、こっそり目配せする。そんな周りの気持ちなど考えずに、当の速水はそそくさと田口を迎えに、医局を飛び出して行った。
「リスクマネジメント委員会長って…。もしかして、バチスタ事件のときの…」
「ああ、田口先生ですね。リスクマネジメント委員会は医療事故防止対策などを検討する院内の組織です。田口先生は神経内科教室の講師で、不定愁訴外来という特異な診療をされています」
「そうなんですか。そんな方がわざわざ研修医に話をしに来るってことは、ここでも患者とのトラブルには気をつけているということですよね」
「いや、多分、それは速水先生の田口先生をオレンジに引き留める口実ですよ。速水先生が単に田口先生に会いたいだけでしよう。研修医うんたらかんたらは、絶対、言い訳ですよ」
 長谷川のコメントに小松は??と首を捻った。

 お前、さっきの注文は何だよ。急に準備できるわけ無いだろう。そんなのもっと早く言え」
 早速、田口の愚痴が始まった。速水は田口が持って来たパソコンに手を伸ばすと、それを実にスマートな仕草で受け取る。
「悪い。けど、今、オレンジにテレビ取材が入っているから、お前にも活躍して貰おうと思って…」
「…しなくていい。って言うか、俺は全然、オレンジには関係ないから」
「ないって言うのか?」
「速水には関係するけど、オレンジはだろ?」
「……」
 もっともな田口の主張に、速水は黙る。それでも、ご機嫌なのは変わらない。二人並んで、救命救急センター医局へと戻る。
「こんにちは。神経内科の田口です。別件でここに来る予定が、速水のせいで変更になり慌てています」
 田口が自己紹介をする。血が苦手な田口なので、救命救急センターには極力近づかない。しかし、メンバーとは速水のせいでいろいろと関わりがある。
「ですよねぇ」
「いいんだよ。行灯にはたまに雷が落ちないと、ずっと穴に籠もっているからな。お前は自分の実力を軽視しすぎている」
「はあ…」
 田口はぱちぱちと瞬きをした。速水のリップサービスにしては少し妙だと思う。それも、医局にある見慣れない顔ぶれを目にして、なるほど…と納得した。
「でも、急な依頼だから、詳しい資料なんかを用意する暇がなかった。今日はこれで勘弁してくれ」
 そう言うと、田口はプレゼンの資料を速水に渡した。
「ああ、十分だ。じゃあ、早速、講義してもらおっか。研修医はあっちでスタンばっている」
 速水は田口のパソコンを持って、カンファレンス室に向かう。その後を田口は付いていくと、パソコンの設定は速水に任せて、持って来たプリントを配った。研修医は総勢5名。一年目が二名、二年目が二名、後期研修医が一名だった。
「神経内科の田口です。院内のリスクマネジメント委員会の委員長をしています。資料は急な依頼だったので、かなり省略されているので、必要なところは自分で書き込んでください。
 まず、始めに、医師なら誰でも医療事故やクレームは必ず経験すると思っておいてください。もちろん、無いに越したことはありません。でも、必ず、一度は経験すると思います。もちろん、明らかな医療過誤の場合は、刑事事件になる可能性があります。でも、たいていの訴訟は民事なので、それだけで医師免許が取り消されることはないのを覚えておいてください。
 本病院に寄せられるクレームも、医師は誤った診断や治療をしているつもりはないのに、結果が患者の予想と違った場合が多いです。法律上は結果が悪いだけでは、医師の責任はないとされていても、当事者にすれば、何かあったから良くならないと思うのは当然かも。
 で、その辺りを調査してみると、医師の説明した内容が、医師の思っているのはことなね理解を患者がしているというのがほとんど。例を挙げると、“骨折は今はありません”と言ったのを“骨折はない”と患者は思った。一週間後のX線で、“骨折していました”と言われると、“あの時は、骨折していないと言ったのに、診断ミスだ”となる。医師はきちんと“今は”と言っているのに、それはスルーされて“骨折”という単語しか記憶されていない。そんなことは良くあるんだ。
 だから、専門用語は使わないのと、曖昧な表現を避けるようにする。“死亡する確率が高いときは、“お亡くなりになる”、“悪性”の可能性は“癌だろう”というように、一般的に使われている言葉を使うようにする。後は、重大な病状の説明は一人でしないで、必ず、他のスタッフに同席して貰い、事前に内容を検討しておくようにする。
 そして、これが一番大事なこと。それは、患者さんに行った説明はカルテに必ず書いておくこと。言った。聞いてない。なんて、話にもならないから、カルテは唯一の公式な記録だから、何かあったときは必ず開示を求められる。カルテを詳しく書いて文句を言われることはないから、どんどん書いたがいい。
 カルテの基本的な書き方は知っていると思うから、今日は省略するけれど、うちの病院も電子カルテが入っているから、アセスメント(評価)、プラン(計画)に頑張って欲しいと思う」
 田口の講義は続く。
「あと研修医が起こしやすいミスの分類だけど、心当たりがあれば反省して欲しい。特に、薬は処方する前に指導医に確認する、ダブルチェックを心がけるようにする。ブドウ糖5%と入力するはずなのに、間違って、50%と点滴オーダーに入れたなんて、時々、報告されている」
 うげーっと、声が聞こえそうな顔をする研修医たち。しかし、次は自分かしないとは言い切れない。
「そのために、院内ルールがあるんだ。これには誰かさんも大人しく従っているぐらいだから、どれだけ、重要なものか分かると思う」
 田口は自分の横で、パソコンの操作をする速水をちらっと見る。わがまま将軍だと言われる速水だが、患者を守るためには院内ルールにも黙って従う。最も、本人が納得している限りだが…。
「そして、これは私個人の見解も入っているけれど、救急診療は患者さんの状態が刻々と変わるから、診断や治療も変更されて当然。時には、事件などが絡んでいる場合もある。だから、研修医の先生たちが家族対応するのは勧めない。それは佐藤先生や新名先生なんかに任せて、まず、技術を習得する方に力を入れたがいい。
 でも、患者や家族の不安を感じられるようにならなくては、いけない。“病院にいるのに、何もしてもらえなかった”よりも、“医者に親身にしてもらった。良かった。”と思ってもらえる方が、患者も医者もハッピーになれる。そのためには、速水のような言葉が少ない、見た目エラソー、態度がでかいなんて、絶対にダメだ。自分の家族だったら、こんな医者に診てもらいたいって思える医者はどんな人?
 あっ、誤解がないようにフォローしておくと、プライベート・モードの速水はよくしゃべるし、笑うし、逆にうるさいぐらいだけど…ね」
 田口の言葉に、研修医たちはみな大きく頷いた。オレンジに三ヶ月もいれば、速水のプライベートを見る機会がある。そのギャップには目が点になるが、そのせいで速水の現場での厳しさに耐えられるのも事実だった。
「プライベートで、どんなことをしていようが俺の勝手だろう」
 速水がふて腐れる。それがちょっと可愛いと思ってしまう一同。普段、クールな分、田口と一緒に居るときに見せる素顔が面白い。今も、自分をいじめた田口に慰めてと目で訴えていた。
 田口は、お前、テレビ局の人がいるんだぞ、と思う。しかし、速水には関係ない。何しろ、監督官庁の厚労省よりも医学部を統括している文科省と手を組もうとするような奴だ。だが、それも教育と医学という二つの世界で生きる限り仕方ない。
「そりゃそうだけど…。ほどほどにしておけよ」
 田口はくすりと笑うと、速水の髪をくしゃっと撫でた。途端に将軍がうっとり笑う。それは完全に、猫にマタタビ状態。こうなると、速水の戦闘モードは即、解除されてしまう。
「なあ、行灯だったら、何をされたら俺に文句を言う?」
「そうだなぁ…。注射関係かな。何度も刺されたり、点滴が漏れたり、血が垂れたり…は嫌だなぁ」
「確かに。そう言えば、お前が痛いの嫌だーっ、半泣きになるたびに、俺は上手い注射の方法を考えたんだよな。注射針を変えてみたり、注入速度を変えたり…。おかげで、痛くない注射をする医者になれたが、お前は今もって痛いって言うよな」
「だって…。注射針って、とげより太いんだぞ。そんなの刺したら痛いに決まっているだろう」
「だから、お前には25Gとか27Gとかの細い針を使ってやっているじゃないか。だいたい、赤ん坊じゃないんだから、チクッぐらいで文句を言うなよ。オレンジじゃ18Gが基本で、16Gって言うときもざらだ」
 それはそうだ。救急外来での輸液はもはやルーチンだ。でも、なぜ?だろうか。

 参考文献:レジデント・ノート 2010年5月号 Vol.12-No.3 羊土社刊

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    さて、いよいよ行灯先生の登場です。
真面目に仕事をしているジェネラルはいかがでしたか? 医者は専門職なのでそれに似合うだけの技術があって当たり前…。
そして、人間性も大切です。とは言っても、こんな患者いらないって言いたくなる人、最近増えていますよねぇ。何でかなぁ。
平成22年9月20日(月) 作成
平成22年10月1日(金)追加・修正
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