卒 業 (将軍×行灯)

 田口は珍しく定時帰宅した速水と一緒に夕食を食べて、のんびりテレビのスイッチを入れた。しかし、彼の興味をひく番組はなく、見るともなくニュース番組を眺めていた。政治は相変わらず、混沌としているし、経済も暗い話題ばかりである。おまけに、事件事故のたぐいは全国どこでも発生状態で気が滅入ってくる。

 はぁ。
 それでも、世間を騒がす話題ぐらいは知っておかないと、ますます昼行灯に成り果てるぞと言われて、仕方なく見ている…。
「なんだ? そのでかいため息。何が不満なんだ?」
「世間は暗いというのが、感じられてため息が出ただけ」
「俺はそれを褒めたがいいのか? それとも、今頃知ったのかと呆れる場面か?」
 食後の後片付けを終えた救命救急センターの若き将軍は、手にノートパソコンを抱えてリビングに戻って来た。
「今から何をするんだ?」
 自宅に仕事は持ち帰らない。それだけを聞いたら、世の大学病院に勤める医師から尊敬のまなざしを向けられそうだが。速水の本音はプライベートで思いっきり恋人を構い倒して、自分も構われたい。という実に単純な理由だった。
 オレンジ新棟のジェネラル・ルージュと称される速水の実態を知っている人物は、ごく限られている。その一人である田口公平は、速水を仕事中毒と表現していた。
「仕事」
「珍しい。何の仕事?」
 自宅ではほとんど目にしたことのない速水の様子に、田口は首をかしげて速水を見た。もちろん、手術などの手技や論文を書斎に山のように積み上げて、休日は嫌がる田口を土台やモデルにして自己研鑽に努めているのは知っている。
「お前は俺がどこに所属していて、何を専門にしているか。知ってるか?」
 速水はほとほと呆れたという顔と口調で、田口の隣に腰を下ろす。そして、柔らかい髪をくしゃっと撫でた。
「知ってる。東城大学医学部付属病院の救命救急センターだろ? でもって、万年講師の俺よりずっとお偉いんだろ?」
「後半は聞き捨てならないが、まあいい。で、付属病院というのはどんなところだ?」
 パソコンを立ち上げながら、速水は小さな子どもに言い聞かせるように田口に尋ねる。
「どんなって。医療機関でありながら、大学に所属しているから、教育機関でもある」
「正解。ならば、そこに所属する医師や看護師などは何をするのが条件になっている? お前はさぼっているようだがな」
「…。論文発表…」
 これだけは苦手だと、弱り切った声で田口は小さく呟いた。
「良くできました。というわけで、救命救急センターにおける俺の活躍ぶりを世間にアピールすることになった」
 どこまでも俺様な速水の態度は相変わらずだが、自宅で、しかも田口の目の前で、いそいそとパソコンに向かうのが珍しい。あまりに珍しいので田口は、明日は空から槍が降ってくるかもしれないと思う。ついでに、槍は痛いからキャンディにして欲しいと心の中で呟いていた。
 そんな田口をよそに、速水は恐ろしいほどの集中力でパソコンのキーを打っていく。資料も見ないで、論文が書けるのかと疑問に思った田口は、横からディスプレイをちらっと覗く。とそこには、英文がびっしり並んでいた。最初のタイトルと出だしの文章を読んだだけで、田口は目をそらす。羅列された単語は、出血多量だとか、心肺停止だとか、四肢切断とか。文字にも関わらず、田口には十分バイオレンスなものだった。
 もっとも、救急センターを舞台にした論文など、他に何が書けるのだろうか?
「できたら、チェックよろしくな」
「いやだ」
 即答で拒否した田口はすっかり逃げモード。
「リアルな写真なんか入れていないから、おまえだって大丈夫だろう。それにダーリンの輝ける論文を、誰よりも早く読めるなんてすごい特権だろう?」
 ずいっと田口に詰め寄ると、速水はぽてりとした田口の唇にチュッと触れるだけのキスをした。
「そんな特権は謹んで他の方に進呈する。でもって、血生臭い論文を読むぐらいなら、手術の見学に行く」
「…」
 田口がどれだけ嫌かを強調すると、速水はそれ以上強制しなかった。というか。お前はどこまで想像力が発達しているんだよ。と、呆れかえっただけである。
 
 そんないつになく仕事熱心な速水を気遣った田口は、テレビの音量を邪魔にならないよう下げて画面を眺める。
「あっ」
「何だ? 何があった?」
 田口があげた小さな叫びを速水は聞き逃さなかった。
「ごめん。大したことじゃないから、気にせず続けてくれ」
 罰が悪そうに田口は肩を竦めた。速水はそれが気になって、パソコンから顔を上げると田口へ目を向けた。
「卒業式か…」
 テレビに映っていたのは、今年度末に廃止となる中学校の卒業式だった。
「いい曲だよな」
 田口が泣きながら歌を歌っている中学生を見ながら、ぽつんと呟いた。
「“旅立ちの日”だろ? 俺らの頃にはなかった曲だけど、今は卒業式の定番らしい」
「よく知っているな」
 田口が感動と尊敬の混じった目で速水を見る。
「ああ。毎年、この時期になると、オレンジ二階で聞けるぞ。せめて、卒業式だけは出たいっていう子どもが、毎年何人かいるからな」
 速水がいる救命救急センターの二階には小児科病棟がある。白血病や神経芽腫などの重い病気の子どもばかりが入院している。
「オレンジ二階で聞けるのか…」
「ああ。あそこは幼稚舎から高校までの全寮制システムだからな」
 速水は完全看護の小児科病棟を言い合て妙に表現した。
「全寮制か。なるほど、ものは言いようだな」
 田口は小児不定愁訴外来にやって来る子どもたちを思い出す。下は幼稚園から上は高校生。中にはここに来る必要があるのか?と首を捻るほど元気な子どももいる。そんな手に余る元気なお子ちゃまは、精神神経科の優秀な?頭脳の持ち主である沼田先生のもとに送致していた。まあ、そのたびに『田口先生。あの子どものどこにトラウマがあるんですか?』と問い合わせが来る。でもって、田口も『私はそれが分からないから、専門科の沼田先生にお願いできたらと思いまして…』などと一歩引いてのよいしょ作戦で望むのだ。
 そんな二人の攻防を、速水は『越後屋の戦い』などと称して楽しがっている。何しろ、沼田がトップを務める東城大学医学のエシックス委員会は、悪名高いのだ。理念は素晴らしい。だが…なのだ。特に、速水はオレンジが絡む収賄事件の件でさんざんな目に遭っている。田口自身は必要なものだと認識はしているが、活動内容に関しては…もう少し何とかならないかが本音だった。沼田は精神科の医師のくせして、とかく融通が利かない。それなのに、専門が小児心的外傷なんて、詐欺だろ?と田口が思っても罰は当たらないはずだ。
 元来、田口の専門は神経内科であって、精神科ではない。神経と精神は同じ脳に関するものだが、実は全く違うものなのだ。そのあたりを誤解している人は、以外にも多い。
「今度、磯村君に楽譜持っていないか聞いてみよう…」
 テレビを見ながら、田口はオレンジ二階に入院している中学三年生を思い出した。もう一度、歌詞をしっかり読みたかったのだ。
「そんなに好きなら、…俺が弾いてやろうか? 行灯」
 速水がパソコンを打つ手を止めて、にやにや笑った。
「歌えるのか?」
 田口は身を乗り出して、速水に尋ねた。すっかり忘れていたが、速水はピアノが弾ける。すっすり田口の意識からは消えていたが、速水の部屋には88鍵を備えたステージピアノがある。本人はほとんど語らないが、大学に入るまで習っていたらしく、その腕は毎年、病院の年末大忘年会や新人歓迎会、果ては病院コンサートなどで発揮されていた。以前、なんで黙っていたんだと聞いたとき、ちょっと照れたような顔をして速水は、“剣道ほど真面目に練習していないし、人に聞かせるような腕じゃない”と言った。しかし、誰でも一度は耳にしたことのある有名なクラシック曲はほとんど弾けるぐらいの腕前はある。天は人によっては、二物も三物も与えるだと田口が確信した瞬間でもあった。
 顔も良くて、背も高くて、剣道も凄くて、ピアノも弾ける。自慢できるものがない自分と速水を比べて、何で俺なんかが好きなんだろう? と悩んだ時期もあった。しかし、今は人間はいろいろ外見だけでなく、考え方や性格や特技が違うから、自分の感性や思考を発展させられるのだと思っている。
「ああ。伊達にオレンジの一階にいる訳じゃない」
「本当に弾けるのか?」
「お前…。俺が言った意味、分かっていないだろう。俺は、不本意にも毎年、二階で卒業式の手伝いをさせられていると言えば分かるか?」
 うんざりしたような、それでいて楽しそうな速水。
「それって…? もしかして…」
「そうだ。歌の伴奏は俺の仕事だ。部長の俺のな」
 速水がしたくてしているわけではない。これも腹黒狸院長の陰謀だ。あの狸は速水に“速水先生、やっぱり見目麗しい医者が居ると病棟も華やかでいいですねぇ。それに、オレンジ新棟の責任者の速水部長が「卒業式」に参加しないのは、どうでしょうか。子どもたちにとって、一生の思い出になるのですから、それに…ご家族にとっても”などと暗黙のフレッシャーをかけた。要するに、速水自らが祝ってやることが、患者にも家族にも心証がいいと言うことだろう。
「すごいな」
 期待に満ちた田口の目が、速水を真っ直ぐ見つめる。
「ただし、この論文ができ上がるまでは駄目だ。できたら歌ってやる。それまで、お利口に待っていろよ」
 ちゅっ。速水は田口の鼻先に約束ののキスを落とした。
「でも、何で黙っていたんだ? 全然、知らなかった…。ちょっ、キスするなよ」
「何でって。聞かないから、答えなかっただけだ」
 相変わらず、外科医らしい?直裁的な男である。この場合、アメリカ人的というか、ヨーロッパ人らしいと言うか…。こいつなら、世界のどこに行っても生きていけるに違いない。ちょっぴり羨ましい田口だったりする。
「ディープな奴じゃないんだから、拒否するなよ。可愛すぎる行灯が悪い…」
「俺に責任があるのか? 普通、急にキスされたら驚くだろう」
 田口は自分を正当化する。
「…それは他人に突然、キスされたら驚くわな。でも、俺とお前の間で、それはないんじゃないか?」
 速水は心底不思議で理解できないと、田口を覗き込む。
「……」
 田口は、なんで、こいつは赤面ものの台詞を素面で言えるんだ…と、ちらっと視線を速水からずらした。
「何、赤い顔して、ため息ついているんだよ」
 なぜか、だんだん速水の機嫌が悪くなっていく。せっかく田口が側にいるのに構えないストレスが、田口いじめへと発展している。
「だって、何か
恥ずかしいし…
 田口の声がだんだん小さくなる。
「何が恥ずかしいんだよ?」
 速水が田口に詰め寄る。
「だっからっ!」
 田口が珍しく語気を強めて、速水を睨む。このままだと、売り言葉に買い言葉で内戦状態になるのは必至だった。
「キスしてもいいか?」
 だが、速水はセクシーな声と流し目でで田口を誘った。このまま田口と不毛な口げんかをするのも、楽しいが、機嫌を損ねた田口を宥める時間がないのに気づき、自分の欲望を優先することにした。
「いいよ」
 しかし、田口の方が速水より一枚上手だった。彼は速水の首に手を巻き付けて抱きつき、すりすりと甘えながら、速水の耳を軽くかんだ。
「つっ! 田口!」
 速水が低い声で唸る。
「驚いたか? 窮鼠猫をかむって言うだろう」
 速水の首筋に顔を埋めたまま、田口は囁いた。それを聞いた速水は、俺は敵なのか?とちょっとショックを受ける。
「お前っていう奴は…」
 低く呻いた速水はくすくす笑う田口の腕を掴んで、自分へと引いた。
「逆もたまにはいいだろう」
 抱き寄せた速水の腕の中で、田口がしてやったりと得意気に笑う。速水は単純すぎる田口の技に引っかかった自分が腹立たしくなった。
 普段は昼行灯のくせして、たまーに予想しないことをかましやがって。どうしてくれよう。
 速水の脳内では、田口の虐める手段が次々と展開されていく。せっかく田口が自分から抱きついてきたのだ。今回は自分の行動を悔やむがいい。そう自分を納得させると、速水は田口を床に押し倒すと、唇を奪った。
「速…水。仕事をして…いたんじゃ…ないのか?」
 貪られるままだった田口が、キスの間に囁いた。それが速水の脳内えっち・シミュレーションを萎えさせ、理性を復活させた。
 くそっ、何で論文を思い出させるんだ? この続きは覚えていろよ、行灯。
 むくっと田口から離れた速水は、完全に逆恨みを込めた目で田口を睨んだ。瞬間、田口の顔が真っ赤になるが、それを堪能する意識は速水にはなかった。
「くそっ。絶対に覚えていろよ。行灯!」
 何を田口が覚えておくんだろう?と首を捻っていたことすら気づかず、彼はすっかりオレンジのジェネラル・ルージュに戻っていた。

「お前って、仕事に対しては本当に真面目なんだな。つくづく感心した」
 田口は何もなかったような顔をして、速水の隣に座り直した。
「何だ? そんなの当然だろう。俺の非常識は行灯に限定されている。まっ、愛があるからできるけどな」
 さらっと速水は愛を告げる。しかし…。
「本当にいい歌詞だよな…」
 田口は速水の声など聞いていない。真剣な目で、テレビから流れる卒業式の曲に聞き入っていた。
「なあ、速水。CD持ってないか?」
「持ってない。が、俺がいつでも歌ってやるから、それで我慢しろ」
 キーを打ちながら、少々、投げやりに速水は答えた。
「…うん…」
 テレビ画面では卒業生たちが拍手で在校生や保護者、先生たちに見送られていた。
「卒業は終わりじゃないけれど、悲しいんだよな」
「別れがあるから、出会いがあるんだろう。あいつらにはこの先、新しい出会いと道が開けている。卒業を悲しいのと思うのは過去の自分しか見ていないからだ。今より成長したいなら、泣いてなんかいられない。そうだろう」
 後ろを振り向かない速水らしい考えに、田口は苦笑した。でも、そんな彼が好きだ。
「俺たちにも、卒業ってあるのかな」
「あるに決まってる。お前は卒業できてないがな」
 何に対して田口が卒業という言葉を使ったのかわからない速水は、自分の都合がいいように解釈する。にやにやと意味ありげに田口を見れば、何だ、それはとムッと見返してくる。
「万年講師。血が苦手」
 速水はゆっくり言葉を句切りながら告げる。そして、田口が反論する前に肩を抱き寄せた。
「でも、俺の恋人からは一生、卒業しなくていい」
 そして、甘ったるい声で耳元に告げる。ついでに、ほんのり赤くなった田口の頬にちゅっとキスした。
「なっ……!」
 途端に、田口の首筋から顔までが再び、真っ赤に染まった。それが速水には堪らない。元親友にこんな一面があるなんて、こんな関係になるまで気がつかなかったのが、いつも惜しいと思う。もっと早く知っていればと、地団駄を踏んだのも数えられないぐらいあった。
「本当はどれも卒業しなくていい。しないで、俺の側にずっといろよ」
 速水はもう一度、ちゅっと田口の頬にキスしながら、砂糖をまぶしまくったあんこのよりも甘い台詞を口にする。
「うん。する気は全くないから」
 田口が速水にふわりと柔らかい微笑みを浮かべながら告げた。速水は田口から滅多にもらえない愛を告げられたはずなのに、なぜか心は浮かない。
「…。行灯の告白は、ものすごく嬉しいはずなのに……。何で微妙で複雑な気がしてくるんだ?」
「何? その訳が分からない感覚は」
 呟きを田口に拾われるが、自分がわからない速水に田口が理解できるとは思えない。
「突っ込みどころは、そこじゃないだろう。まっ、俺的には愛しい恋人が俺の腕の中で、俺を好きだと言ってくれるだけで、十分満足している。俺はこの世にお前だけがいれば、それだけで何もいらない。そう言える自分に満足している」
 速水は腕に抱き締めた田口に、真摯な目と口調で告げた。嘘ではない。田口だけが自分の冷静な感情を揺さぶる。
 しかし、時に救急現場で直面させられる命の儚さを前に、ここに田口が居たらと思うと息が詰まった。突然の死を前に嘆くしかない家族の慟哭が、自分自身の力不足を責めているように感じるときがある。
 あれが田口だったら…。
 そう考えると、冷静な自分が揺れる。どれほど力を尽くしても助けられない命があるのは理解している。だが、人は理性だけで生きているわけではない。
 冷静な外科医としての判断と人としての感情。その狭間で苦しむとき、速水の脳裏にはいつも田口の姿が浮かぶ。ひっそりとしながらも、患者の立場に立つのを忘れないスタンスは、速水に医療の原点を思い出させる。
 しかも、落ち込んで今更ぐれようが、大学時代からのあれやこれやをお互いに知り尽くしているので、何も取り繕うものがない。愚痴ろうが、泣こうが、絡もうが、きちんと受け止めて返してくれる。
「愛している…」
 孤独で孤高の将軍は自分の突然の告白で、きょとんとする恋人を強く抱き締めた。おずおずと抱き締め返す腕が愛しかった。

「そういや、高校卒業する時、第二ボタンを取られなかったか?」
 速水は自分の胸に田口を抱いて、そのくしゃっとした髪を長い指で梳きながら尋ねた。
「第二ボタンって、懐かしい響きだな。そんな時代があったのすら、すっかり忘れていた」
「お前、ぼけるには少し早すぎないか?」
 速水はやれやれとため息混じりに呟く。
「いいだろう。別に…。それより、速水はどうだったんだ? 当然、取られたんだろう」
 田口は断言口調で速水に告げる。
「まあな。結構な争奪戦だったって聞いている」
「自分で渡していないのか?」
「せっかく勉強三昧だった高校生活から卒業するのに、第二ボタンなんぞに束縛されなくっちゃいけないんだ? なので、後輩の奴に煮るなり焼くなり好きにしろって預けた。卒業式の日まで、好きでもない女にまとわりつかれるのはうんざりだったからな」
 傲慢速水はすでにこの頃から存在していたようだ。
「鬼畜。傲慢。信じられない」
 田口の言い分はもっともだ。
「あん? んなら、もてもての俺は誰にやれば良かったんだ?」
 当時の速水には誰にも渡さないという選択はなかった。
「そんなの知るか」
 速水の高校時代のもてぶりなど、今更聞かないでも想像できた。田口のぶっきらぼうな答えに、速水は苦笑する。過去に嫉妬する田口が可愛い。
「だけど、行灯が俺と同じ高校で、俺と違う大学に行くって言ったら、多分、俺はお前と第二ボタンを交換しただろうな。そして、それは一生、宝物だ」
 もっと早く田口と会えたら、もっと明るく充実した青春が遅れただろうに…。
 速水は声に出さずに、田口を抱き締めて、その頬に自分の頬をつけて思い出に浸る。
「それは光栄だったな」
 田口のちょっと恥ずかしがった声がいい。速水は仕事そっちのけで、ちゅっと恥ずかしい音をさせて、田口の頬にキスした。
「もしかしたら、俺はお前に泣きながら指輪を渡していたかもしれない。いやそれより、多分、お前を追っかけただろうな。絶対に離さないって」
「それって、ストーカーじゃないか」
 田口はまさにため息だった。
「それぐらい、俺はお前が好きなんだ」
「…取りあえず、名誉だと、ありがたく思っておくよ」
「俺の第二ボタンはもうないから渡せないが、そうだ、大学の卒業記念にエンゲージリング、買ってやるよ。さしずめ、給料の三ヶ月分でいいか? もっといいのが欲しいなら、オプションを付けてもいいぞ?」
 速水はいいことを思いついたと、田口に言い寄る。
「いい。そんなのいらない!」
「なんだと…」
 せっかく思いついた第二ボタン、もとい、愛の誓いであるエンゲージリングのプレゼントを即座に否定され、速水の機嫌は一気に下降する。別にそんなもので田口の愛をつなぎ止めたいわけではないが、やっぱり男として、愛妻には何か形で愛を届けたいと思うのは…変なのか? さらに落ち込みそうな速水の耳に、田口の小さな声が届く。
「そんなの貰っても、嵌められないじゃないか。恥ずかしくて…、
しかも、お揃いなんて、お前との関係を自ら暴露しているようで、絶対に嫌だ
 もごもごした田口のいい訳を聞いた速水は、他人の目が気になるだけだと知り、ほっと胸を撫で下ろした。
「仕事時にはめろなんて言わないから、いいだろう。俺だって仕事柄、指輪をはめて現場には立てない。だから、強制はしない。ただ、俺から田口に真剣な気持ちを証明したいだけだ」
 本当は自分が事故や災害で死んだ時に、心のよりどころとなればと思っているとは、絶対に口にできない速水の思いだった。愛する人の死に直面する家族の姿をいくつも速水は見ている。浮気をしていた夫が亡くなった時、その手に嵌っていた結婚指輪を前に、能面のような妻が泣き崩れるのを何度も見た。死んだ後も憎まなくてはいけない人生は、残った者には辛すぎる。嘘でもいいから、愛していたというのを伝えられたら、残された者はどんなに救われるか。
「別に欲しくないから…」
 その言った田口の言葉の裏を感じて、速水は田口に頭に乗せて、うっとり笑った。
「行灯のくせに、俺の愛を無視するのか?」
「しないけど…。大学の卒業記念っていうのはあんまり嬉しくない。それに、エンゲージリングを卒業記念にする意味も分からない」
 田口の言い分はもっともだ。卒業記念にそれはないだろうと速水も思う。だが、彼は何とか口実をつけて、田口に実家に眠っているリングを渡したかった。
「確かに。だったら、無難に初エッチの日にするか?」
 なので、二人の記念日にふさわしい日をあげてみる。絶対に田口が嫌がるのを予想して…。
「それは却下」
 予想通りに速攻で田口が否定した。
「だったら、出会った日か? お前、覚えているか?」
「……」
「まっ、俺的には別に日にちにこだわりはないから、いつでもいいけどな。正月でも、クリスマスでも、卒業でも…」
「…いい加減、過ぎる」
「だったら、お前が日にちを決めろよ。まあ、急がないから決まったら教えてくれ。でも、あまり留任していると、俺がキレて、寝ている間にはめるかも」
 真剣に考えている田口の様子が可愛くて、速水はますます彼を追い詰める。
「分かった。ちゃんと考えておく」
 ちゃっかり速水は田口にエンゲージリングを渡す約束を取り付けて、内心でにんまりする。これでようやく、日の目を見なかった結婚指輪が田口の元へ行きそうだ。これで実家の両親に顔向けできると、速水はほっと息を吐いた。

             Copyright©2009-2010 Luna,All Rights Reserved
   平成21年3月19日(木)  作成。 
平成22年11月20日(土) 誤字脱字の訂正、一部改訂

去年に引き続いて、今年も一部訂正しました。というか、設定でのズレがあったりしたので、その訂正です。しかも、うちの将軍はピアノを弾きます。
でもって、私が体験したピアノのエピソードがこれから出て来るかと思います。
ところで、「卒業」って聞くと何を思い出しますか? 私は「旅立ちの日」という曲がとても好きです。
この曲は弾いている(伴奏ですが…)と本当に泣きたくなります。何度聞いても、歌っても切なくて、卒業ではなく色々な別れを思い出します。
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