将軍の乱心? (将軍×行灯) 本文へジャンプ
 9月18日、月曜日。オレンジ新棟一階。
 速水はチュッパチャップスを咥えながら、いつもと同じように潜水艦の司令室のような部長室にいた。しかし、いつものようにモニターを見ているわけではない。両袖の重厚な机の前に座り、紙の束と戦っていた。事務方から回ってきた未決済のまま放り投げていた書類の山。
 面倒くせーっ!とぼやきつつ、速水はボールペンをせっせと動かす。救急部の赤字を埋めるべく、用紙に様々な検査や薬品名を記入していく。
 そして、ふと呟く。
「黒ナマズには秘書がいて、センター長の俺にいないのは何でだ? それって、差別じゃ?」
 トップになってから、やたら増えた事務仕事は根っからの外科医の速水には、まったく合わなかった。しかも、終わらない書類は自宅持ち帰りという時間外労働もさせられている。しかも、宿題を終わらせないと、彼の最愛の“妻”が相手をしてくれないという悲しい現実があった。
 速水が書類の束を前に、意味のない愚痴を言いたくなるのも仕方がない。
「そういえば、行灯の奴、五連休なんて贅沢すぎる。俺なんか、休みは一日だけだぞ…」
 どうでもいい愚痴は、誰も聞いていないから言える。乱雑に散らかった机の書類は、それでも少しずつ減っていく。ぶつぶつ独り言を呟きつつ、速水はペンを走らせていた。
「こんなちまちました仕事、俺がすることか? ったく、ドクターヘリを飛ばしてくれるなら、いつでも書いてやるのに」
 速水の悪態はどこまでも、止まることなく、呪詛のように部長室に流れていた。誰も見たくないし、聞きたくない、ジェネラル・ルージュと呼ばれる男の姿だろう。
 そこに院内PHSが軽やかに鳴り出した。
 誰だよ、俺を呼び出す奴は…。苛々もピークになりつつある速水は、自分を呼び出そうとする相手に八つ当たり気分で、PHSに表示された名前を見た。

「行灯? どうしたんだ? 腹でも壊したか? それとも、事件に巻き込まれたか?」
 今までの不機嫌さはどこへやら、速水は喜色満面で話しかける。
『いや。至って、体調はいいけど…。病院長の無理難題もないから、とっても平和だよ』
 数時間前、今朝もふたりは一緒に出勤した。田口は相変わらず自分を甘やかそうとする速水に、戸惑ったような声で答える。
「じゃあ、何だ。デートのお誘いか?」
『…前から思っていたんだけど、速水のデートの基準て何?』
「おまえ…」
 絶句の速水。そんなの今更悩むな。と言いたいが…。しかし、改めて考えると、速水も??だった。
「好き合ったもの同士が二人っきりで行動することじゃないのか?」
 文系ではないので、ロマンティックな言葉が思いつかない。それでも、考えつく限りの文章を綴ってみた。
『何か。えらく哲学めいた答えだな。でも、意味は通じた』
「で、何だ?」
『うん。連休前だし、たまには夕食を外で食べないかって…』
 はにかんでいるだろう田口を想像して、速水はふわりと笑う。珍しい田口からのお誘いだ。
「ああ、構わないぞ。お前は定時だったよな。なら、それぐらいにこっちから連絡するから、待ってろよ」
『わかった。じゃあ、また後で♥』
 語尾にハートマークを飛ばした田口が電話を切った。
「たぐちぃ。愛してる♥」
 田口に負けないぐらい熱烈なキスを投げると、速水は書類の山を睨んだ。とにかく、これを片付けない限り、今日のデートは難しい…かも。
「片付けてやる。何が何でも、片付けてやるぞ」
 呪詛のような速水の呟きが部長室に響いた。

 その頃、オレンジ新棟一階では、“ジェネラルの近衛兵”と称されるICU看護師たちが、ため息をついていた。
「シルバー・ウィークとか世間では言ってるけど、あたしらには関係ないのが悲しいねぇ」
「先輩、それは言っても仕方ないですよ。だって、けがと病気は時間を選んでくれないから」
「確かに。せっかくイベント目白押しなのに、日勤に夜勤じゃテレビで見るしかないかぁ」
 速水を頂点に強い結束で結ばれているICUの看護師たちだが、そこは若い女性。やっぱり世間が気になる。
「一日だけ取れた休みにかけるしかないかぁ」
 そうよねぇ。と、ため息とも諦めとも言えない空気が周りに漂う。
「あらっ! でも、先輩、いいこともありますよ」
 ICUの“爆弾娘”と称される如月翔子が異を唱える。
「部長はこの五連休ずっと日勤です。しかも、休日シフトだから、朝のカンファレンスから、おはようって言ってもらえるんですよ」
 オレンジ新棟一階にある救命救急センター。二十四時間三百六十五日、年中無休だが、さすがに土日は休日シフトになる。とは言っても、スタッフが減ることはない。午前と午後に出勤時間をフレックスできるようになっていた。こうすると、出勤が一日にならないので、家庭サービスなどができると、家族持ちのスタッフには評判がいい。もちろん、独身者も彼氏や彼女とデートするのに、日程を合わせる苦労が少なくなり好評だった。
「…如月。ジェネラルはいつだってここに居るじゃない。それに日勤だからって、私たちに仕事以外で声をかけるなんてないでしょうが。ましてや、院内デートなんて夢また夢。…私、毎度、あんたの思考回路が分からない」
 如月よりほんの少し先輩の森野が、呆れ顔で呟いた。速水に憧れる看護師や女医は、この東城大学付属病院だけでどれいるのか。両手両足の指では数えられないはず。そのどれもをかわして、速水が捕まえたのは大学時代の同級生で、天国に一番近い極楽病棟で“お地蔵様”と呼ばれている。
「だから、私は純粋に速水先生のファンクラブ・ナンバー1号です」
 翔子は堂々と先輩に反論する。
「いつの間に、ジェネラルのファンクラブができたの? もう、あんたって都合がいいんだから…」
「まあ、いいじゃない森野。ところで、極楽病棟からの情報なんだけど、グッチー先生、当直なしで五連休だって。と言うことは、おうちで主夫?」
「ええ?! だったら、ジェネラルが愛妻弁当デビューかも!」 
「いやーっ。羨ましいーっ。私も欲しい。グッチー先生のお弁当」
 愛妻弁当に、如月以外のメンバーも身を乗り出す。この場に田口か速水がいたら、羨ましいのはどっちで、欲しいのは弁当かよっと突っ込みが入るのは間違いない。
「でも、グッチー先生の作るお弁当ってどんなのだろう」
 翔子の疑問に答える声はない。
「全然、想像できない」
「でも、見かけによらず、すっごい料理の腕を持ってたりして、どうする?」
「だけど、グッチー先生だよ…」
 田口の話題だけで、ここまで盛り上がれる彼女たちはある意味凄い。
「確かに。でも、ジェネラルがグッチー先生にそんなの期待しているとは思わないけど」
 速水の惚気話に付き合わされる佐藤には悪いが、速水が盛大に惚気てくれるため、彼女たちは速水が田口に求めるものを薄々感づいていた。それは絶対的な信頼。医学部時代から苦楽をともにしてきた二人のお互いに対する信頼はかなり深い。しかも、そこに島津的に言わせても、友情だか愛情だか、その延長上の関係だか分からない強い絆がある。それは互いの友情をいまいち信じられない女友達しか知らない彼女たちには理解しがたかった。
「ジェネラルと放射線科の島津准教授とグッチー先生って、ある意味、戦友って感じしない。うちのおじいちゃんが今でも戦友とは仲良くて、一年に一回は集まっているんだけど。お祖母ちゃんもお母さんも、男の友情ってある意味エッチよねぇなんて笑っているのが、最近、分かるような分かんないような」
「それ、私んちも一緒。うちはお父さんが、お母さんにも言えないことを友達に相談してるみたいって、お母さんが文句言ってた。ジェネラルもそんな感じかなぁ。
 あっ、でも、ジェネラルがグッチー先生に色々愚痴っている姿って、想像ではないよね」
「というより、私はそんなジェネラル見たくない…。やっぱり、ジェネラルはジェネラルじゃないと」
 いやーっ。きゃーっ。何を想像したのか。一斉に彼女たちは顔を赤らめた。どうやら、下世話な想像をしてしまったらしい。
「でも、冗談抜きでグッチー先生、差し入れに来てくれないかなぁ。そうしたら、ジェネラルとのラブラブが生で見られるかもしれないし。機嫌もいいだろうから…」
 如月の本音に、思わず頷いてしまう面々だった。

「じゃあ、超致死的胸部外傷は何だ?」
「え…っと。心タンポナーデと大量の血胸と気胸…」
 速水の質問に自信なさげに答える初期研修医に、う~んと速水は唸ってしばしの沈黙。
「20点だな。これは絶対覚えておかないといけない救急での基本中の基本だ。これを瞬時に判断しないと、患者はあっという間に天国だ。そんなわけで、俺の知り合いがうまい語呂合わせを教えてくれたから、覚えとけよ。
TAF(タフ)3X(スリー・エックス)”。つまり、心タンポナーデ(c-Tamponade)、気道閉塞(Airway obstruction)、フレイル・チェスト(lail chest)、緊張性気胸(Tension PTX)、開放性気胸(open PTX)、大量血胸(massive HT)だ。重症多発患者が来たら、とにかく、この悪役を探す」
 速水は救命救急センター内にあるカンファレンス・ルームのホワイトボードにさらさらと要点を書いた。
 やる気があるのか、ないのか。いまいち覇気のない研修医たちに、速水のモチベーションも低下気味。もちろん、速水もようやく医師免許を手にしたばかりの研修医にとって、救命救急の現場が厳しいのは分かっている。教科書や講義といった机上の知識は豊富でも、それが現場全てに当てはまるはずはない。しかも、第三次救急指定のオレンジでは、高度救命救急が必要な重症患者しか来ない。それでも、卒後直ぐの初期研修で救急の臨床経験が義務づけられたのは喜ばしいことだ。救急センターから各科にコンサルトしたとき、それがどういう意味を持つのか。少なくとも、ここで研修すれば理解できるだろう。

 ・心肺蘇生または最重症患者→エコーを使いまくる! ただし、一回の検査は素早く終わらせ、何度も繰り返す。
 ・外傷患者+頻脈+冷汗か発汗→ショックを疑え!

 読解不能な文字を書く外科医が多い中、速水はかなり達筆だ。
「これは基本中の基本だから、忘れるなよ。とにかく、救急は一瞬の判断ミスや見落としで、患者をあの世に送っちまう。けど、三途の川に並んでいる奴をこっちに呼び戻せたときの喜びは、感動なんてもんじゃない。俺は死に神に勝ったぜってな」
 速水はホワイトボードから目を離すと、にやりと笑った。救急の現場では、ピリピリとした威圧感を纏い、恐ろしいまでの緊張を周りに強いる“将軍”だが、一歩現場から離れると、意外にもさばさばした性格をしている。
 修羅場は見るより慣れろ主義の速水だが、それは後期研修医(シニアレジデント)に限ってだ。初期研修医は救急に慣れていないので、まず、どういう流れで治療が行われるか知り、どう動けばいいのかを身につける必要がある。速水はオレンジを佐藤に任せて、研修医の机上の知識を現場でどう生かすかを中心に指導する。現代の3K(きつい・苦しい・危険)と同業者から敬遠されがちな救急だが、興味を持つ学生や研修医の想いを潰すのだけはしたくない。
 だからこそ、研修医には基本を徹底的に叩き込む。救急隊から送られる情報から、患者の容態を予想し、何に重点を置いて動くか。救急では最初に必要となる判断だ。検査結果の迅速な解読も重要になる。
 生命を脅かす率の低い疾患ではなく、一刻を争う状況に対応できる医者になって欲しい。また、そんな疾病を見逃さない医者に欲しいと思う。交通事故などのアクシデントによる緊急のけがを受け入れるためにオレンジはある。しかし、昼間、体調不良を訴えて、近医やかかりつけ医を受診し、治療を受けたにも関わらず、夜間に救急車でオレンジに運ばれることがある。もちろん、心筋梗塞やくも膜下出血など、突然発症するものもあるが、多くは検査結果の見落としか、検査不足だったりする。そんなレベルの医者になって欲しくない。
「で、この胸部外傷悪役六人組を探すのは、身体所見とエコー、ポータブル胸部X線だ。特にエコーでは、FASTと呼ばれる四カ所を重点的に確認する。外傷性ショックの90%は出血が原因で、残りが閉塞性ショック。でもって、輸液で血圧の安定を図る…」
 速水はホワイトボードにFASTと書くと、その略字が何を意味するのか書き込んでいく。
「あの…。速水先生、質問があるんですが、血圧が落ち着いたと安心してはいけないって言われましたが、具体的にはどういうことなんですか?」
 外科医志望と紹介文に書いてあった研修医がメモを取りながら尋ねた。
 おっ、やる気があっていい感触。本日、ご機嫌モードの速水は質問者へにっこり笑顔を振りまいた。その瞬間、顔が赤くなったのは、取りあえず見なかったことにする。
「外傷、交通事故なんかで搬送されて来た患者を重症ショックと判断して、輸液する。で、血圧が戻らないから、次に輸血を行ったら、ようやく血圧が落ち着いた。ちなみに、搬送されてきた時点で撮ったポータブルX線検査で重症の骨折が見つかっている。だから、輸血を維持しつつ、CT室に送った。が、撮影中にショックを起こした。
 さて、何を見落とした?」
 速水の講義は分かりやすい。それは医学部での救急の講座でも定評がある。もっとも、それは血が苦手な田口に外科学の単位を取らせるために、どれだけ苦労して講義を説明したかに基づいているとは、速水自身も気づいていなかったが。
「重症ショックから血圧が上がったのなら、transientと考えていいと思いますが…。輸血量が足りなかったとか?」
 研修医が外科の教科書を広げながら、首を捻る。そこに救命救急センターナンバー2の佐藤が、ICUから戻ってきた。
「佐藤ちゃんなら、この状況をどう見る?」
 速水は佐藤を捕まえると、研修医にしたのと同じ説明をして、意見を求めた。
「私だったら。何、のんびり検査しているんだ! すぐ止血だ! この患者はnon-responderだ!って叫ぶでしょうね」
 佐藤は速水の真似で、身振り手振りを加えて熱演した。
「さすが、副部長代理。その根拠は?」
 外科医の速水が冷静に尋ねる。
「出血性ショックのアプローチ、その1。初期輸液1~2リットルに対する反応をしっかり見て、その後、対処を決めます。ちなみに、これで血圧が安定したら、輸液を維持します。そのまま、血圧が安定したら、responder。再度、不安定になったら、transient」
「そして、血圧が正常化しない場合はnon-responderと判断して、素早い輸血と緊急止血術が必要になる。とまあ、判断する。で、どっちみち、transientも輸血と止血術が必要だから、responder以外はすべて止血術適応だと覚えておくと、患者を死なせずにすむ」
 佐藤の後を引き継いで、速水が説明をする。速水の判断は速い。しかも、0か1のようにはっきりしていて、曖昧なことはなかった。
「あと、出血性ショックの症状は、血圧低下と頻脈と思っているとやばい。実際の現場では、結構、頻脈にならないことが多い。特に、老人と子どもは怖い」
 佐藤はあはは…と大声で笑って、速水を見た。速水も納得顔で頷く。
「まあ、こればっかりは実際の現場で体験してもらうしかないかぁ。子どもはあんまり来ないが、老人はよく運ばれてくるから、君らも遭遇する機会はあるだろう。他に質問は?」
 一度に多くのことを言っても、身につくものではない。特に救急の現場では、頭では分かっている知識と実際の患者では違うことがよくある。救いを求める患者の前で、医者が硬直していては助かる命も助けられない。こればっかりは、自分の力で処置できるようにならなくてはいけない。
「えっと、出血性ショックの時、他の科ではアルブミン製剤をオーダーするよう言われたのですが、救急ではどうなんですか?」
「確かに、アルブミン製剤は1リットル入れて、半分が血管に残るけどな。救急じゃコストが高すぎる。だから、ここではリンゲル液で血圧維持が基本だな。ちなみに、アメリカの医療ドラマとかで生食全開っていう台詞をよく聞くけど、生食は大量に輸液すると、アシドーシスをきたすから、お勧めではないな」
 ちなみに、生食とは生理食塩水のことで、血液と等しい浸透圧を持った食塩水のことである。リンゲル液は生理食塩水より血液中の電解質組成に近いため、いろいろな種類がある。それをその時々の症状にあわせて使い分けるようになっている。
「それじゃあ、外傷患者に輸血する時に、どのくらい必要だと考えたらいいんですか?」
 研修医が悩むのは当然だろう。大出血患者が運ばれてきても、どれだけの血液を準備すればいいのか、基準がなければ、経験の浅い医師は指示を出せない。速水たちは経験で即座に判断できるが、若手がとっさに判断するのは難しいだろう。
「これに関して、はっきりした基準はないんだなぁ。取りあえず、うちの基準は、ショックがあれば、8単位。出血量が500mlあれば、8単位。で、緊急オペをする時は、予想出血量1Lごとに8単位ずつかな。要するに、基本8単位って覚えておくといいんじゃないか? 後は患者の状態を見て決めるしかないのが実情」
 輸血製剤の量は「単位」で現す。ちなみに、1単位は200mlの献血から作られる量。濃厚赤血球の場合、1単位は140mlで、2単位を1時間で点滴する。
「そうですね。救急では基本があって、無いようと言ったら言い過ぎかもしれませんが。他の科ならルーチンな対応があるし、前例もあるじゃないですか。でも、ここじゃ、そんなのあって無きが如しって、毎日、痛感しています」
 研修医があまりの修羅場に根を上げるかと思っていた速水だったが、どうやらそうではないらしいと思い直した。二十四時間無休。さらに、休日も容赦なく呼び出しが掛かる365日拘束される部署に好きこのんでくる奴は、よほど使命感が強い奴か、スリリングに飢えている奴か。
 研修医が専門に救急を選んでくれるとは楽観していないが、医療の最前線ではどんなことをしているのか。どんな知識や技術が必要なのか。他の科とどのように連携をしていくのか。
 たとえどの科の医師になっても、救命救急の現場を覚えていて欲しいと思う。血を見たくないという理由で神経内科を選んだ田口も、速水が身を粉にして働くのを止めようとはしない。むしろ、お前は凄いよ、偉いよと誉めてくれる。
「まあ、なあ。救急医って聞くと、世間の人は“おお~”って顔をするんだが、現場にいる俺たちは過労死一歩手前の状態で働いている。元々、労働基準法がない勤務医なのに、そこに救命救急が加わると、週40時間労働ってどこの話?だ。そうして、俺たちは市民の命をこの世につなぎ止めている。だけど、いつまでこんな生活をするのかって、空しくなるのも事実だな」
 速水は救急現場の真相を暴露する。
「盆も正月も、クリスマスも関係ないオレンジ一階のスタッフは、否応なしに独身者が多くなり、その結果、ますます彼らは仕事優先の生活に浸っていく。で、さらに縁遠くなり、オレンジは充実した優秀なスタッフが揃いつつも、私生活は潤いのない者ばかり。こんなんで、いいのかねぇ」
 速水のぼやきに、佐藤もうんうんと頷きながら、
「まっ、部長みたく、ちゃっかり相手をゲットしている人もいるけどな」
と付け加える。
「佐藤ちゃん。俺があいつを捕まえたのは学生の時。研修医時代にそんな時間あるか。ぽやぽや研修していたのは、同期でもあいつだけだと俺は思っている。で、俺は黒ナマズの目を驚かすために、必死に自分を磨いた。それと、自分がどこまで行けるか試したくもなっていた。先輩がメスを持つのをようやく許された手術に、いつでもチャレンジできるよう糸結びや針やメスの使い方を、毎日、嫌ってぐらい練習した。そして、俺は自分を過信する。俺は根っからの外科医で、外科医になるべく生まれてきたと。患者の立場や背景を考えず、手術すれば治ると思い込んでいた。そこに、東城デパートの火事が起きた。
 次々と運ばれてくる重症患者。今のようなトリアージなんてないから、残ったスタッフでそれを判断するしかなかった。しかも、外科医は研修医の俺しか残っていなかった。迷っている時間も考える余裕もなかった。病棟に残っていたスタッフ全員で必死に戦った。その時、俺は初めて生や死は人知の域を超えたものだと知った。命を救ってやるなんて思っていた自分が、どれほど傲慢だったかようやく気がついたら、黒ナマズなんてどうでも良くなった。生きたいと望む人の手伝いをするために、俺は最高の外科医になろうと決めた。
 けど、あいつは普段からぽよんとしてて、昔、病棟でついたあだ名が“天窓のお地蔵様”。今も同じあだ名がついているのは凄いが…。何でそんなあだ名がついたのか調べたら、じっと人の話をただ聞いてくれるからだった。否定も肯定も、ましてや、説教などしない。それは道ばたにいるお地蔵様のように、黙って、じっと話を聞いてくれるのが、とても心地よい、ということらしい。それは患者の声をきちんと受け止めることになる」
 速水が自分を語ることは、その激務もあって滅多にない。なので、研修医だけでなく佐藤もじっと耳を傾けた。
「俺たち外科医は、手術の手技や技術に拘って、それを受ける患者を見なくなってしまう時がある。高度な技術を必要とするときや難しい手技を必要とする手術だけに注目しがちだ。でも、患者には人としての感情があり、考えがあり、バックボーンがあり、そして、家族がある。それら全てをひっくるめて、自分は医者として、外科医じゃなくて医者として、自分は何ができるか。何をしなくてはいけないか。理性と感性で診ていくようにしなくては、互いに満足する医療は存在しないと思う。治療はもちろんエビデンスに基づいて行うが、それも患者にあわせないと効率は上がらない。
 もちろん、スタッフとのコンビネーションは重要だ。看護師、放射線技師、薬剤師、色々なコ・メディカルとチームを組んでいるのを忘れてはいけない。彼らの信頼を得るだけの医者になるよう努力を怠らないぐらいじゃないと、患者は信頼してくれないと俺は思っている。
 それは普段の行動の端々に出るから、他の人間はすぐに“この医者は~”って気づく。だが、表だって、それは口にしない。けど、内心では、ちゃんと評価しているんだ。“こいつには、任せられない”ってな。
 特にオレンジのような救命救急センターじゃ、一つの見落としが死へと直結する。CTにしても、FASTにしても、一瞬一瞬で変化していく。それが救急患者だ。しかも、側には泣きわめく家族がいたりする。その中でも、感情ではなく、冷静な視点で診る力が重要になる。
 もちろん、子どもの場合は俺だって辛い。だが、それを現場では絶対に見せない。どうしようかと迷っていても、外には見せずに、他のメンバーを呼んでさりげに意見を聞く。そして、常に自分の行った処置について反省する。それがオレンジのスタッフとしての最低限のプロフェッショナルだと、俺は考えている。
 とは言っても、最初は誰でも研修医だよな。初めから、何でもできるはずはない。あのブラック・ジャックですら、多分…。だから、まずは上級医の先輩の動きを見て、それを頭に叩き込む。そして、自信がない手技は時間を見つけてひたすら練習する。そんな地味な努力が、一年後怠けていた奴と差を付ける」
 速水の言葉が静かに、そして、厳かに綴られていく。それは速水が外科医として生きていた時間で身につけた倫理観だった。佐藤も研修医も無言で、速水を見つめる。ジェネラル・ルージュこと、“速水晃一”。数々の伝説を持つ男は、その端整な要望とカリスマ性で救命救急センターのトップに君臨する。
 それは医学部で講義するときも変わらない。端整な外見とクールな外科医然とした速水は、学生に絶対的な人気を誇っていた。

 * さらに「2」へと続く予定。だんだん、マニアックになってきているような…。

参考文献:『Step Beyond Resident3 外傷・外科診療のツボ編』 林寛之/著 羊土社/刊

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    まじめに、将軍が指導をしています。医学用語の説明が面倒なのですっ飛ばしましたが…。
分からないところは飛ばして読んでください。別に知らなくてもいいかと思うので。
実際、こんなドクターが救急センターにいても、見えるのは目だけだよねぇ。だって、救急医はマスクにゴーグルしていることが多いんだもん。
平成21年11月23日(月)  掲載
平成22年3月20日(土) 後半を追加掲載
平成22年5月8日(土) 一部を修正
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