連休前の攻防 2  本文へジャンプ

「お前、俺の何を持って、医者として認めているんだ?」
 ぽよんとしているくせに、仕事では鋭い田口に速水は驚きつつ、その口調からちょっと怒らせたかなと反省する。
「ん? 他人の愚痴を聞いてやることに関しては、誰も太刀打ちできない凄腕の医者」
「誉めているのか?」
 速水の答えが気に入らなかったのか、田口の眉間に皺が寄る。
「もちろん。俺には絶対できない技だ」
 それはそうだろう。速水はスピードスターと呼ばれている。常に、相手のペースに合わせた診察を行う愚痴外来とは、流れる時間が違う。なので、速水としては真面目に答えたのだが、田口の眉間の皺はそのまま。どうやら、機嫌取りは失敗したらしい。しかも、目にも不満の二文字が浮かんでいた。
 速水は言葉で駄目だったので、次の作戦へと出た。田口の肩を抱いて、ぼさぼさの髪に頬を乗せて、目を閉じる。抱き締めた腕に伝わる温かさが心地いい。
 生きている。それだけで世界は素晴らしいと言えた。今日、救えなかった命に、速水はすまなかったと小さな声で謝る。
 もっと生きたかっただろう。こんな急に死ぬなんて思ってもいなかっただろう。言い切れない空しさに速水は大声で叫びたいのをぐっとこらえる。と同時に、自分の力不足に地面を叩きたかった。自分は昔と変わらず、無力のままだ。そう思ったら、全身から力が抜けた。もたれていた田口の頭からずるっと滑り落ち、たどり着いたのは、田口の膝。
「速水…」
 と、田口が呟いた。細い指が速水の髪を梳いていく。猫っ毛でぼさぼした田口の髪と違って、速水の少し長めの髪はさらさらしている。田口の指の感触が気持ちよくて、速水は満足の息を小さく吐いた。
 オレンジから無言で去った人たちにも、愛する人がいたはずだ。お互いに今日が最後とは思わないで…。もう二度と温もりを感じあうことができないと、気づかずに時間を過ごしてきたに違いない。
「なあ。お前は俺を置いていかないよな」
「ん? 何?」
 田口は速水の声がよく聞き取れなかったのか。その口元に耳を寄せた。
「俺を…一人にはしないよな」
 目を閉じたまま、速水は小さく呟いた。生きている限り、いつか別れなくてはいけない。人は生まれる時もひとりなら、死ぬ時もひとりだ。ひとときの孤独を癒すのが、この空蝉の世界なのかもしれない。だが、それまでは田口と一緒にいたい。それがいつ来るのか分からないから、口先だけの約束でもいいから欲しくなる。特にこんな日は…。
「ああ。お前が嫌だと言っても別れてやらないから、覚悟しておけよ」
「うん。だったらいい…」
 田口の言葉は速水の予想以上のものだった。なので、速水は端整な顔に儚い笑みを微かに浮かべて、田口を見上げた。心配そうな田口の様子に、速水はずいぶん、自分はへたれているんだなと思う。と同時に、田口に心配させて安心しているのにも気づいて苦笑する。
「お互い、いい歳なんだから、あまり無理するなよ。俺もなるべく家に帰るから」
 田口が遠慮がちに呟いた。
 速水は、だったら、今日から定時退庁して、家で待っていろと言いたくなる。だが、田口には田口の考えと生活があり、速水が私生活よりもオレンジを最優先にするのと同じように、田口にも大事なものがあると理解している。わがままな自分をこれ以上ないぐらい田口は甘やかせてくれる。その自覚があるから、速水は時にわがままを飲み込んでいる。
 そんな速水を知っている二十年来の腐れ縁?の友人である島津は、速水が田口のことで愚痴るたびに、田口は速水のわがままをよく聞いているなと、感心する。そして必ず、俺だったら、そんな我が儘男となんか、とっくに見捨てて別れていると言う。それが第三者の視点なら、どちらが“妥協”しているのかと考えれば、一目瞭然だった。
「ちょっと、悪い…」
 そう言って、田口が速水をそのままに立ち上がった。どこに行くんだと、声をかけようとしたが、速水の疲れ切った体は動こうとしなかった。仕方なく速水は田口が掛けてくれた毛布に潜り込み、狭いソファで眠りやすい体勢になった。
 院内PHSの電源は切ってある。これは俺を呼び出すなという速水の意思表示なのを、ICUスタッフなら知っている。なので、よほどのことがない限り、呼び出されないだろう。もっとも、呼び出されても応じるつもりはない。しかし、院内放送が掛かれば、田口に全部ばれてしまう。でも、田口なら、ここまでへたれている速水の心情を察して、こんなところで寝るぐらいなら、家に帰れと言うに違いない。しかし、速水は田口がいない家には帰りたくなかった。

「……、探したんですよ」
「はあ?」
 声がする。それも聞き慣れた。でも、うるさい。速水は毛布を被り直して、眠ろうとした。
「PHSも切ってあって…。今時分、館内放送も掛けられないので、手の空いたスタッフが交代で…」
「はあ…。でも、こいつの行き先なんて、だいだい決まっているでしょう」
 おっとりした田口の声に、そうだ、そうだと速水はぼんやり呟く。
「そうなんですが。今日、オレンジに運ばれて来た、全員が亡くなってしまい、スタッフ全員でへこんでいるんです。しかも、速水部長が阿修羅のように鬼気迫ってくるものだから、怖くて誰も近づけなくなって…。
 でも、オレンジはチームで戦わないといけないんで、みんなで気を取り直して、次こそはって気合いを入れたところで、速水先生はどこ?ってなったわけです」
 聞きたくないのに耳に入る自分の話題に速水は、俺はそんなに柔じゃないと、呟く。
 ぼそぼそ会話は進んでいるようだ。しかし、自分の話だと思うと、どうしても気になってしまう。
「PHSの電源は一応、入っているんでしょうが…。病院長が二十回に一回しか捕まらないから、私に何とかしろって、難題を押しつけられたことがあるんです」
「電源は必ず入っていると思います。オレンジから連絡をして、速水先生が取らなかったことはないので…。画面を確認して出ているのではないでしょうか?」
 佐藤が速水を弁護した。
「そう言えば…、私が連絡するときは、必ず、取りますね。まあ、病院長からのコールを無視したくなるのは、よく分かるんですけど…。それが他にとばっちりが来るのに気づかないところが、速水ですよねぇ」
 病院長から何度も無理難題を押しつけられた田口は、もはやため息でも耐えられないという顔で呟いた。
「病院長ですか…」
 佐藤も同情がたっぷり籠もった目で、田口に頷く。病院長に振り回される田口と、速水に振り回される自分と、共通点も多くあり、時々、二人でため息をついて、お互いを慰め合っている。
「まあ。私にも速水ぐらい心臓に毛が生えていたら、上手く難題を切り抜けられるのでしょうが…」
「速水先生はジェネラルですから、誰も真似はできません。いや、誰もしようとしてもできないから、速水先生なのかもしれません。命を救う天才ですから…」
「仕事ではそうでも、その場を離れたら、とても天才とは思えませんが…。私は常々、あの才能を他にも回すといいのにと思ってるのですが、二兎を追う者は一兎をも得ずです。そんな速水ですから、和知氏は敵前逃亡したとは思えないんです。皆さんが、次こそはと思うぐらいですから、あの馬鹿はもっと闘志を燃やしているのではないでしょうか」
 確かにここに来たときの速水はへたれていた。が、それは田口にしてみると、いつものへたれ速水で…。それほど、心配するほどではなかった。
「じゃあ、どうして行方不明に…。今まで、こんな事は一度もありませんでした」
 佐藤が田口に詰め寄る。
「これは私の推測ですが、速水はいつものようにちょっと息抜き?ぐらいだったのではないでしょうか。救命救急医の速水は何度も修羅場をくぐって来たのは、私より佐藤先生の方がご存じだと思います。速水がへたれたのは、あの東城デパート火災の時だけだと思いますが…。
 そして、PHSの電源を切っていたのは、単に眠かっただけじゃないですか?」
「はあ……」
 田口の論理に佐藤は反論できない。誰よりも速水を知っている田口の言葉は重い。
「だから、速水はオレンジでは天才でも、そこから一歩外に出ると、保育園児レベルだと、佐藤先生もご存じでしょう」
 にっこり、田口は佐藤に笑った。佐藤には、そうですねとしか口にできない。そして、それを途切れ途切れに聞いていた速水は、むくっと体を起こした。
「おい、行灯。保育園児ってなんだ」
「ああ。救命救急センターの速水部長は、経済観念ゼロで、組織維持の面ではワガママな三歳児というのは東城大学では常識。認めていないのは、お前ひとり」
「はあ? お前どうしたんだ? 愚痴ならあとでゆっくり聞いてやるから、ちょっと寝かせろ」
 最後は甘え声で、速水は田口に訴える。
「速水…」
 田口が困ったように呟くが、速水は田口に構ってもらえるなら何でもいい。
「だから、夕飯はパス。お前、カップラーメンでも食っとけよ。風呂は明日の朝、入る。…あと、セックスも無しな」
 すっかり自宅モードの速水。なので、遠慮なく田口に甘える。あの戦場が嫌いではない。でも、神経が擦り切れそうになるときがある。特にトップに立ってからは、様々なしがらみが絡みついて、救命だけに集中できなくなった。だが、周囲のことを考えずに、わがまま一杯に振る舞えるようにはなった。
「ちょっ。速水」
 田口が慌てて、速水の口を手で押さえた。これ以上、何もしゃべるなと言うことらしい。でも、どうしてそんなことをする必要がある?と速水は思った。半分寝ぼけている彼は、ここが愚痴外来だというのをすっかり忘れていた。
「おい、起きろ。ここは家じゃなくて、愚痴外来だ」
「ごちゃごちゃ、うるさいぞ。行灯…」
 田口に体を揺すられた速水は、文句を口にしながら目を開けた。寝るなら帰れと、速水に迫る田口の顔は怒りに彩られていた。、速水は首を捻りつつ、キスしようと田口に顔を寄せた。と、ばしっと音がしたのと同時に、左の頬に激痛が走った。
「いってぇ…」
 痛みで速水の目が覚めた。愛するダンナをビンタで起こす嫁がいるかぁと、恨みの籠もった強烈な流し目を田口に向けたところで、速水は、
「佐藤…ちゃんか?」
と、田口以外に存在する人物に気づいた。じゃあ、ここはどこだ?と、速水はぐるりと周りを見回した。
「お前、寝ぼけているな。いいか。ここは家じゃなくて、東城大学付属病院で俺の仕事場だ。でもって、お前はPHSを切って居なくなったため、佐藤先生が心配して探していた。というのが、今までの展開」
「そうか…」
 田口に説明されて、速水は徐々に自分の状況を思い出した。
「だったら、自分が何をすべきか分かるだろう」
 いつになく厳しい田口の態度に、速水は何か起こらせるようなことをしたのだろうかと考えるが、取りあえず、目の前の課題から片付ける事にする。
「悪かった」
 速水は迷うことなく田口に頭を下げた。
「…速水…。俺じゃなくて、佐藤先生とオレンジのスタッフに謝れ」
 しかし、田口の怒りは静まるどころか、更に厳しい口調になった。原因は俺だなぁと思いつつ、速水は田口に言われるまま、ソファから降りて、所在なさげに立つ佐藤の前に立った。
 PHSぐらいでこの騒ぎは何だ。と、佐藤を追求したいのを横に置いて、速水は部下を見た。
「佐藤ちゃん。俺を捜す暇があったら、ひとりでも多くの命を救え。それぐらい、副部長代理なら分かっているだろう」
「今、ICUは落ち着いています。それよりも、速水先生のPHSが切ってあるのは、初めてだっだので…」
 だから、お前らに任せて、おれはのんびりしようと思ったんだよ。ささやかな息抜きをしようと思いついた結果がこれでは、速水も浮かばれない。佐藤に愚痴ってやろうかと思うが、田口の視線を感じて、大人な態度で臨むことにした。
「あのなぁ。俺は午後、休み。だから、電源切っていた」
 常日頃、田口からプライベートがないと言われ続けている速水なので、今回、ちょっとだけ強調してみた。
「そうかもしれませんが…」
 歯切れ悪く佐藤が答える。
「佐藤ちゃん。救命救急医にも休みが必要だ。でないと、モチベーションが下がってしまう」
「それはそうですが…」
 佐藤がため息混じりに呟いた。速水は佐藤の…の部分に、ここで、あんたがそれを言うか?というのを、ちゃんと読み取る。
 シフトがあると言っても、救命救急医にはないのと同じ。帰ろうとしたときに、患者が運ばれれば、そのまま残って手伝うのがオレンジでは暗黙の了解になっている。人手があればあるほど、素早く処置ができる。特に速水はその技術の高さとセンター長という事で、常にオンコール状態になっている。
「佐藤ちゃん。神様っていうのは気まぐれなんだよ。どこに現れるなんて、俺たちには分かるはずない。だとしたら、今日のオレンジは死に神に気に入られたのだろう。やれるだけのことをしたら、後は俺たちの力ではどうしようもない。向こうに行くのも戻って来るのも、患者の意志だ。折れたとは迷っている患者に戻る道はこっちだと示してやることしかできない。
 救急医が感傷に浸って患者が生き返るのなら、いくらでも浸っていい。だが、現実はそうじゃない。俺たちは命を救うためのプロでなければ駄目なんだ。何があろうと、常に冷静であれだ。というわけで、後は任せた。佐藤ちゃん」」
 速水はぽんっと佐藤の肩を叩くと、すっきりした顔で、お前は~と自分を睨んでいる田口ににへっと笑った。途端、田口のこめかみに怒りマークがくっきりと浮かんだ。ここに至って、まだ、速水は自分が田口の怒りを増長させた理由が分からずにいた。
「俺は家出しても、オレンジを見捨てることはない。オレンジには責任があるからな。だから、安心していいぞ」
 にっこり。速水は佐藤に笑った。しかし、自分が爆弾を投下したのは気づいていない。佐藤だけは、田口先生には責任は無いって言っていませんかぁと気づき、青くなる。
「佐藤先生、これほど仕事に熱意を持って励む速水が、オレンジを忘れるなんてあり得ないでしょうから…」
 信じられなくほど優しい口調で、田口が佐藤に告げた。しかし、その裏には速水への棘がざっくりと隠れていた。
 やばい、行灯のやつ。本気で俺に説教、もとい、文句と愚痴を並べるつもりだな。
 自分が原因だとは思いつかない速水は、ひっそりとため息を吐いた。
「考えてみると、田口先生のおっしゃるとおりです。今日はオレンジに死に神が居ると思うことにします。もしかしたら、私たちがへたれるかどうかを試しているのかもしれません」
 速水の行方不明騒動からようやく立ち直った佐藤が、力強く田口に笑った。
「安心しました。速水には、私からもよ~く話を聞いておきます。本当にお疲れでした。佐藤先生…」
 佐藤をねぎらう田口。しかし、速水には“お主も悪よのぉ、越後屋…。いやいや、お代官様こそ…”という台詞が聞こえた。それは違うだろうと否定すると、今度は“月に代わってお仕置きよ!”と言う声が聞こえてきた。結構な昔にブームになったアニメの決め台詞らしいが、最近になって、なぜか?二階の小児科でリバイバルしているらしい。
 オレンジに変える佐藤を見送る田口の背中を見ながら速水は、どうせ、俺がぜーんぶ悪いですよと、しばし自虐ネタに走る。

「さてと、速水…」
 少々、ドスの効いた声で田口に呼ばれた速水は、少しだけ身構えた。今もって田口の怒りの原因は分からないが、自分に対して怒っているのだけは分かっているので、黙って受け止めようと心する。
「帰ろうっか。支度するから、ちょっと待ってろ」
 続いて発せられた田口の口調は、あまりにも呆気なかった。
「あ…?」
 あまりにも予想していなかった田口の台詞に、速水は間抜けな声を上げた。しかし、そこは救命救急センター部長、すぐに頭を切り換える。
「お前はこのまま帰っても構わないよな。休みだし…」
 田口はよれよれの白衣をロッカーに入れながら、どこか面白そうに言う。速水は何かあるのでは?と思いつつも、頷いていた。
「夕飯は俺が作るから。何か食べたいものはあるか?」
「いや、特には…。それより、お前とまったりしたい…」
 ソファでごろごろしたまま、速水は田口に甘える。
「分かったから…。それより、お前、本当にここから帰っても大丈夫なんだろうな」
「ああ。貴重品は部長室のロッカーに入ってるし、鍵はここにある。PHSは手放すなと言われているから、後で電源を入れておく。あとはこの格好か…。着替えを取りに行くと、また、捕まるよな」
いくら速水でも、術衣に白衣で帰るのは抵抗がある。かと言って、着替えはない。田口の服は速水には小さすぎる。
「白衣はここに置いていけよ。洗濯に出しておいてやる。で、術衣は脱ぐわけにはいかないから、取りあえず、着て帰る。帰ったら、速攻でシャワーを浴びて、ビニール袋に入れて、明日、病院に持って行く。しかないだろう」
「そうするか。…行灯、ここに俺の服をこっそりストックしててくれ」
「考慮しておくよ」
 田口の返事は素っ気ない。
「何だよ~。愛が足りない~」
 速水がごねる。
「そうじゃなくて、俺の所にある物は、全部、藤原さんにチェックされているんだぞ。多分…だけど。速水の私物がある理由を説明する俺の苦労も考えろよ」
 田口が目元を赤くして、早口にまくし立てた。
「まあ…な」
 速水はあいまいに相槌を打ったが、藤原は速水の服をここで見つけたとしても気にしないだろうというのは分かっていた。田口よりも速水の方が藤原をよく知っている。
「だから、却下」
「えーっ! だったら、直接、藤原さんに頼もうかな。この顔を武器にして…」
「ダメだ!」
「だったら、置いても構わないだろう。聞かれたら、“速水が勝手に置いていきました”って言えばいいだろう。多分、それで藤原さんは分かってくれる」
 自信を持って、速水は断言した。
「……」
 これには田口も無言。速水と藤原の付き合いは、田口には知らない世界だ。戦友というと、藤原には少々申し訳ない気がするが、外科という名の戦場の、手術室というリングでチームを組んだ仲だ。お互いの立場での主張は交わしたが、やはり、同じ目標に向かって走った意識は、今も深く心に刻まれている。
「たーぐち。愛してるー」
 速水は愚痴外来の鍵を手にした田口に、後ろから抱きついた。
「知ってるよ」
 しかし、田口に冷たく言い切られ、速水は田口に回した腕の力を緩めた。その手を田口がポンポンと軽く叩いて、帰ろうと呟いた。
「うん」
 素直に頷いた速水は田口を解放した。速水が先に廊下に出る。ドアに鍵をかけた田口が速水の姿を見ると、突然、速水の手を握った。
「行灯?」
 きょとんとする速水。
「速水、このまま、病院から逃げ出すぞ」
 そう言うと、田口が速水をつかんで走り始めた。速水はいたずらっ子のような田口に戸惑いながら、彼に引っ張られるまま、転ばないよう注意しながら、外階段を駆け下りた。久しぶりにやんちゃをしていた頃を思い出し、自然、速水もわくわくしながら、田口を追いかけた。

「なあ。ずっと家にいるのか?」
 田口に夕食を作ってもらい、しかも、速水の好物が並んだとなれば、何も言うことない。満腹、満足だ。例のごとく、田口が見えるリビングの床でごろごろしている。
「いるよ。休みだって言っただろう。お前は仕事?」
 夕食の後片付けをしながら、田口が答える。
「まあな。当直をパスしたから、昼はがんばらないと、あいつらにメスを投げられかねん」
 速水の場合、あくまでも予定だ。救急患者は予約などして病院にやっては来ない。しかも、5連休ともなれば、市外からの人も増える。となると、交通事故なども増えるし、急病でもかかりつけが休みのため、搬送されてくる患者も増えるはずだ。
 今日にしても、シフト的には午後休みにもかかわらず、現場に拘束された。過酷な現場に悲鳴を上げているのは、速水だけでない。スタッフはそれ以上に、過剰労働を強いられている。だが、人数が多ければいいというものでもない。スタッフ間の信頼関係があって、チーム医療ができる。
 それだけでなく、オレンジが救命救急センターとして威力を発揮している背景には、市民の意識も大きく関与している。他の地域の救命救急センターでは、人が少ないからという理由で真夜中に風邪薬をもらいに来る患者や、軽症のけがで来る患者が後を絶たず、本当に重症な人の発見が遅れるということが起きている。
 その点では、速水たちの努力もあって、オレンジに運ばれて助からなかったら、それが天命だったという意識が桜宮市民にはある。(ちなみに、オレンジ新棟の道向かいにはもう一つの救命救急センターがあり、こちらの存在もありがたがったりする。ちなみに、そっちは動物専門の救命救急センターという日本でも数少ない施設だ。色も、こっちはオレンジ。あっちは桜色なので、救急車が間違って人間を運ぶということは無いが、勝手に来る人の中には間違って、獣医学部の方にいってしまう人がいるらしい。向こうは自力で来た場合でも、受け入れてくれるので、間違って人間が行ったとしても、話は聞いてくれる。そして、必要なら、付属病院の診療科に連絡を入れてくれる。基本的にオレンジでは自力歩行などで来る人は受け入れていないので。ただし、先ほどのように大したことのない病気やけがの場合、獣医学部の救命救急センターにいるセラピー犬や猫に無視され、スタッフにも冷たい目で見られ、説教されるらしい…。そして、いろいろな動物たちに囲まれて、医学部付属病院へ行く波目になるらしい←それはそれはとっても恥ずかしい)
「確かに、患者にとって、お前は最高の医者だろうが、スタッフにとってはどうなんだろう」
 ぽつりと田口が呟いた。
「おい。俺はスタッフに権力を振りかざしたり、圧力を掛けりしていない」
「それは単に自覚が無いだけじゃないのか? 確かに、部長のお前が現場にいるのは心強いと思う。その反面、プレッシャーも大きいんじゃないのか? どうせプレッシャーを与えるのなら、患者に向き合う方にしろよ。そうやって、医者は成長していくものじゃないのか? もちろん、患者の安全は第一だし、治療に専念するのは当然だけど」
 痛いところを田口に指摘つれた速水は黙る。それは速水も気づいていた。だが、許せないラインがある。救える命を取りこぼしてしまうのは、重大な犯罪だ。それが速水が救急の現場で身につけた信念だ。目の前で患者が亡くなることが、どのくらい大きなストレスになるか。田口には理解できていないと思う。例え助からないと思っても、今できる最善の治療を行う。そのためには、何だって行う。だが、院外心肺停止の蘇生率は5%以下だ。統計的にもかなり低い。それでも、速水は命を引き戻そうとする。
 救命救急センターの現場に立ったことのない田口には、きっと一生分からないだろう。現場で一番辛いのは、突然消えてしまった命を前にして、立ちすくむ家族の顔を見たときだ。速水晃一という救命救急医は、患者の死因も分かっているし、納得している。しかし、速水晃一という一人の男は自分の技術を振り返って、もっと何かできたのではないかと問い続ける。
「最終的には、部長のお前が責任を取ることになるのだろうけど、いつまでもお前に頼っていてはダメなんじゃないか?」
「まあな」
 田口が速水の仕事に意見することはほとんどない。なので、速水はテレビを見るのをやめて、田口の背中へ視線を向けた。
「なあんて、救急センター部長の速水に言えるほど、俺もできた人間じゃないけれど」
 声と同じように田口がはにかんでいるのが、背中しか見えなくても、速水には分かる。きついことを田口が敢えて口にしているのは、自分の激務を考えてだろうと予想が付く。田口の心遣いはありがたいと思う。だが、速水は救命救急医なのだ。失われそうな命をこの世につなぎ止めるのが仕事だ。死に神の手から、こちらの世界に魂を呼び戻すのが、自分に与えられた使命だと思っている。
 悪いな、行灯。俺は多分、このままずっと走り続けるだろう。立ち止まったら、死んでしまうサメのように、ひたすら泳ぎ続けるしかないんだ。命尽きる瞬間まで。そう言えば、以前、俺のことを天翔るイカロスと言った人がいたな。ただ一人、大空を翔ろ。真っ直ぐに自分の信じる道を進めと。あれは極楽病棟に舞い降りた伝説の歌姫だったか。
 彼女は天国から、速水の様子を見ているのだろうか。今会えば、何と言ってくれるだろう。
 速水はフローリングの床に横になって、見るとはなしにニュースを眺めながら、ぼんやり考える。どんなに考えても答えは返らない。それでも、クリスマスの日に天に駆け上った迦陵頻伽の言葉が、どこからか響いてくる。
『ジェネラルの道はどこまでも真っ直ぐで、決して曲がることは無いのだから…』
 だけど、少しぐらいスピードを落としてもいいだろう?と、速水は迦陵頻伽に尋ねる。記憶の中の冴子は、ただ微笑むばかり。でも、その瞳は、いいわよと言ってくれているように思えた。

 田口が片付けを終えて、リビングに戻ると、速水がすやすやとフローリングの床で眠っていた。
「速水?」
 小さく名前を呼んだ田口は、穏やかな顔で眠る戦士にため息をついた。慢性的な疲れが速水にのし掛かっているのは知っている。でも、それを田口が軽くしてやることはできない。だけど、ドクター・ヘリを桜宮に飛ばすことや、救急医療の体制を整えることなど、自分が手伝えそうなことには、陰からだが手を尽くした。今になって、田口は自分も外科系を専攻すれば良かったと思うときがある。努力すれば、苦手な血もクリアできたかもしれない。速水と同じフィールドに立てたら、彼の荷物を少しでも引く受けられたかもしれなかった…。
 でも、現実は…。
「速水、寝るならベッドへ行けよ」
 田口は軽く肩を揺らして速水を起こす。速水は、うん?とうっすら目を開けたが、起きようとしない。付属病院一いい男と内外から評価される速水は、寝ぼけていてもいい男だ。
「速水、ほら、ベッドに行くぞ」
 少し強めに声を掛けるが、速水は、
「行灯…、眠い」
と言うと、とろんとした目をして田口に甘えようとする。どうやら、速水には移動する気力も残っていないらしい。そう判断した田口は、仕方ないなぁと呟きつつ、寝室へ向かった。戻って来たときには、両手に布団一式を抱えていた。
「速水、そっちに詰めて」
 田口は持って来た布団を足下に置くと、速水に声をかけながら、速水の体を向こう側へと押す。
「うん…」
 速水は素直に、ごろんと寝返りを打った。田口は面倒くさいとぼやきつつ、布団を広げて敷いた。
「ほらっ、今度はこっちに移動」
 よいしょと田口は、反対側に速水の体を押して、移動を促した。
「…分かった…」
 いつもの布団に気づいた速水は、もぞもぞと中に潜り込んだ。田口は図体ばかり大きくなっても、相変わらず、手の掛かる子どものような速水に、こいつは昔と全然変わってないなと思った。そして、もう一組布団を隣に敷いた。
「たーぐちぃ。一緒に寝よ」
 田口が布団を敷き終えると、熟睡しかかっている速水が布団からちょこんと顔を出して呼ぶ。それを見た田口は、お前の歳はいくつだよと、心の中でこっそり悪態をついた。当の速水はそんなの意に介せず、来て来てと布団の中から手で田口を招く。
 ちょっとだけ、可愛いかも。少年に戻ったような速水の仕草に、田口にも笑みが浮かぶ。普段は救命救急センターのジェネラル・ルージュとして君臨する速水だが、こんなあどけない面も持っている。
「はいはい」
 田口は呆れつつも、速水に近づいた。直ぐに、速水の長い手が田口をつかみ、自分に引き寄せた。
「ずっと側にいるよ…な」
 速水が田口を抱きしめて、囁く。
「当然だろう」
 田口はしっかり答えた。速水は抱きしめる力を強くすると、良かったと泣きそうになりながら呟いた。
「愛しているよ、速水。お前を永遠に…」
 田口が速水の腕の中で滅多に口にしない告白をした。しかし、それを速水は耳に入れる前に、眠りに落ちていった。
 明日になれば、速水はジェネラル・ルージュの顔をして、生と死の戦場に立つのだろう。
『それまで、血まみれのイカロスを休ませてあげて、行灯先生』
 どこからか、懐かしい冴子の声が聞こえように思えた田口は、了解の意味を込めて、にっこり虚空へ微笑んだ。

1に戻る
                    Copyright©2010 Luna,All Rights Reserved
    寝ぼけた将軍は最強です。見境なしに田口先生に絡んで、甘えます。
佐藤先生はそんな自分の上司の姿を、きっと楽しんで見ていると思います。
でもって、将軍は田口先生に構ってもらえて幸せてす。彼の原動力は行灯先生なんです。
 平成21年11月15日(日) 作成   
平成21年11月23日(月) 一部訂正
平成22年10月24日(日) 追加修正
inserted by FC2 system