東部戦線異状有り? (将軍×行灯) 本文へジャンプ
「兵藤先生 少しいいでしょうか?」
 定例の医局長会議が終わった後、席を立った神経内科病棟医局長の兵藤に病院長が声を掛けた。
「はぁ」
 立ち止まった兵藤は僅かな緊張を抱いて、病院長を見つめた。
「実は田口先生を正月三が日の当直から外していただきたいのですが…」
「どうしてですか?」
 兵藤は滅多にない病院長からの、しかも、お願いがどんな意味を持つのか。興味津々の目で病院長を見た。
「そうしないと、田口先生が引き籠もってしまいかねませんので…。よろしく頼みましたよ。
 もし、できなかった場合は、兵藤先生が田口先生を天の岩戸から引っ張り出してくださいよ。その時は、将軍も一緒になだめて連れて来てください」
「…わかりました」
 本人はぽよんとしているのに、周りのガードが厳しい田口に近づく理由ができたと喜んだ兵藤だが、『将軍』の名前を聞いておとなしくしっぽを巻いた。

「なあ、兵藤は箱根駅伝に出られる方法って知らないか?」
「先輩、突然何を言い出すんですか。あれは学生だけですよ。例え学生だとしても、先輩に駅伝は無理でしょう」
 呆れかえった兵藤に田口はムッとなる。
「そんなの知ってる。そうじゃなくて、救護要員として参加できないかなって思って…」
「先輩が? そりゃまず無理でしょう。速水先生なら分かりますが、先輩に駅伝選手の緊急事態の対応は無理でしょうから、要請自体来ないと思います」
「だよなぁ」
 やっぱりと、田口が呟く。
「先輩、そんなに箱根に行きたいなら、一年前ぐらいから近くのホテルを予約すると、往路も復路も見られますよ。仕事で行くよりも、そっちの方が気楽でいいと、僕は思いますが…」
「確かに、それもそうだ」
 田口がなぜ今年に限って、箱根駅伝にこだわるのか、こっそり調べてみようと兵藤は思うのだった。

「なあ、島津。お前、箱根駅伝関係者に知り合いなんていないよな」
「突然やって来たと思ったら、何を言い出すんだ、行灯」
 東城大学医学部付属病院が誇る地下のMRI撮影室で、画像解析をする手を止めて、島津が振り返った。
「うん。ちょっと…」
「俺の知り合いは駅伝なんてしない奴らばっかりだからな。柔道関係者はいつでも紹介できるけど、陸上はなぁ」
 島津は、どうせ、また訳の分からん仕事を病院長に押しつけられたんだなぁと、長年の友人に同情する。
「だよなぁ。東城大も関東の端くれに位置しているけど、箱根の道は険しいからなぁ」
「仕方ないだろう。駅伝に燃える有名監督が居るわけでなし、それを目標に入学する生徒もいないうちじゃ、本戦出場なんて夢また夢」
 島津はわははっと豪快に笑った。
「仕方ないかぁ」
 さも残念と、田口は呟く。
「行灯、お前。何で今頃、箱根駅伝?」
「うん、この前、彦根が電話してきて、今年はあいつのところが救護担当になっていて、生で駅伝を見られるって聞いたから…」
「でも、仕事だぞ。いざって言う時の責任は重いよな。まあ、俺は頼まれても正月なんかに仕事したくないし、ましてや、駅伝の救護なんて
大金積まれても断る」
 島津は再び映像へと視線を移した。
「ちょっと待て、今、彦根のところって言ったよな。だったら、俺のつてより彦根に頼んだが早いんじゃないか?」
「それは…そうだけど、あの彦根だよ」
 田口が言いよどむと、
「確かにあの彦根だもんな。後でどんな取り立てがあるか分かったもんじゃない…か」
「だろっ」
 田口の言いたいことを島津が代弁した。
「まあ、誰か心当たりがあったら、聞いておくわ」
「ありがと、島津」
 そう言って、田口は地下室から自分の根城へと戻った。

「田口先生、箱根駅伝に参加されたいとか。いったいどうされたんですか?」
「えっ、もう噂になっているんですか?」
「兵藤先生が、あちこちで箱根駅伝関係者を知らないかって尋ねているようです。その影に田口先生有りだそうです」
「はぁ」
 相変わらず、どうでもいいような噂が院内を駆け巡っているようだ。まあ、それを期待していた田口である。兵藤が手応えのある答えを持って来てくれるといいと願う。
「でも、どうして今年に限って箱根駅伝に拘られているんですか。今まではテレビ観戦でしたのに」
「ええっと。いつもテレビ観戦だから、たまには現場を見てみたいなぁって思ったんですが…」
「そうですか」
 愚痴外来の専属看護師の藤原は納得の答えを田口に返したが、本当は別の理由があるのでしょうと、こっそり呟いていた。病院長からの秘密指令は出ていないので、これは田口自身のことなのだ。
 田口が箱根駅伝に結構はまっているのを、藤原はよく知っている。正月二日、三日の病棟勤務の時も、医局では箱根駅伝のテレビ中継がずっと掛かってるし、このときばかりは、スポーツ新聞なるものも誰かが持ってくる。それを熱心に田口が見ているというのは、すでに把握済み。
 元旦の実業団駅伝に始まって、往路復路にほぼ半日かかる箱根駅伝で、正月が終わると言っても過言ではない日本。いったいどれだけのファンがいるのか。想像もつかない。予選本戦、それぞれに熱い戦いがあり、感動の涙がある。
「でも、見るだけなら、選手が走るところのどこでもいいと思うんですけれど。それこそ、小田原でも東京でも…」」
 東京の大手門から、箱根の芦ノ湖まで、5人で六時間近く走るのだ。その距離は半端ではない。
「ええ、まあ…」
 田口が曖昧に言葉を濁した。
 ということは、田口自身のことではないことで、田口が動いているのではないだろうか。高階が関係していないのなら、残るは田口の恋人である速水しかない。
 だが、速水は相変わらず、救命救急センターで日夜、搬送される患者と闘っている。箱根駅伝と田口と速水。接点が見つからないし、田口不機嫌の原因も思い至らない。
「田口先生。私で良ければ、相談に乗りますが…」
 クリスマスも終わり、御用納めの日も控えている今。動ける時間は少ない。藤原は直接田口から原因を聞こうとした。
「いえ、大したことではないので…。すみません。藤原さんにまで、心配して貰うなんて」
 しかし、田口は口を割らなかった。
「困った時はお互い様です。私で良ければ、いつでもお話を伺いますので…」
 藤原看護師はサイホンでたてたコーヒーを田口の前に置いて、にっこり微笑んだ。田口から聞き出すのは無理だと考え、他に当たることにする。
 取りあえず、オレンジからね。そうこっそり呟いて、藤原は自分のネットワークをたどり始めた。
「ありがとうごさいます」
 田口は何も知らずに、藤原に笑顔を見せた。

「お前、田口に例の件を告げ口しただろう。おかげで、うちは今、嵐が吹きまくっている。どう、責任取ってくれる?」
 救命救急センターの部長室で、長い足を机の上に投げ出して、速水は電話を肩と耳の間に挟んで、ペンを走らせていた。
『だって、田口先輩から年末の話題から、正月はどうするんだって聞かれたから、答えたままですよ』
「それはいい。ただし、その先の一言が多かったんだ」
『せっかく田口先輩と会える機会だから、喜んだ僕だけを責めるなんてずるい…。先輩こそ、僕から話があった時に、田口先輩にさっさと言っておけば良かったのに…』
「はあ? お前、俺のせいにするのか? あん?」
 速水の口調が険しくなる。
『だって、僕は事実を田口先輩に言っただけで、その前後のフォローは先輩の仕事でしょう』
「彦根。お前って、そんな奴だよな。分かっていても、腹立つ。お前、当分、桜宮に出入り禁止」
 ちよっ、先輩待って…。と声がするのを無視して、速水は電話を切った。
 まったく、彦根の馬鹿のせいで、田口が拗ねまくっているのをどうやって宥めるんだよ。正月早々、というか。年末から田口が暗すぎて、こっちまで気が滅入る。
 月末までに仕上げなくてはいけない書類を書きながら、速水ははぁぁっと大きなため息を吐いた。

「翔子ちゃん。速水部長が、ため息つきまくっているの知ってる?」
「ええ。お正月の話題が出ると、何かくらーくなるんですよね」
「ラブラブお惚気攻撃もうんざりするが、どよんとしている部長も堪らないなぁ。年末なのにオレンジの空気が暗すぎる」
「ですよねぇ。いつものお惚気話はないんですか?」
 ICUに向かう佐藤と如月翔子。
「ないよ。ここ二、三日は特にね。しかも、なぞの田口先生の噂もあるし」
「グッチー先生と箱根駅伝…と速水部長。全然、繋がりません」
 何が速水をたそがらせているのか。さっぱり、佐藤も如月も分からず、こっちもため息だった。

「田口先生のお悩みは判明しましたか?」
『いいえ。ただし、速水先生が関係しているようですが…』
「なるほど…。私の方も原因を探してみます。これからも、田口先生のこと、よろしくお願いします」
 高階病院長はゆっくり電話を切った。そして、窓の前に立つと、そこから見える桜町市を眺める。田口がここから一番綺麗に見えると言った大きな窓。
「仕方ありませんね。こっそり私が手を打ちましょうかね」

 御用納めの12月28日。
「速水先生。せっかくのお正月ですが、大役を頼んで申し訳ありません。もう少し早く、私にも分かっていれば、田口先生を天の岩戸に籠もらせなくて済んだのですが…」
「いえ」
 速水は言葉少なに、高階に頭を下げた。房総救命救急センターの病理医、彦根から事前に打診があっていたので、とくに驚きはなかったが、これが原因で田口が口も聞いてくれないという現実に肩が落ちる。
「で、このまま、田口先生に籠もっていられては病院としても困るので、お年玉を用意しました。受け取ってください」
 そう言って、高階が速水に差し出したのは、箱根のあの高級旅館の年末年始の宿泊券だった。
「これは…」
 提示された旅館は一泊するだけでもかなりの値段だ。それが年末年始となれば、かなりの額になるのは、世間に疎い速水でも分かる。
「田口先生があなたの箱根駅伝救急要員要請でふて腐れているとお聞きしたので、速水家の平和のために用意しました。田口先生に拗ねられると、うちの優秀な救命医の志気が下がってスタッフが困りますので…」
「はぁ…」
 どう反応していいのか悩む速水をよそに、にっこりの高階。
「田口の不機嫌の原因をどこから高階さんは得たんですか? 私ですら気づかなかったのに…」
「速水先生はお忙しいので、たまには第三者が気づくこともあるんですよ。そうですね。いろいろな噂をまとめると、見えてくるのがあるんですよ」
 にやりと意味深な笑みを浮かべた高階の後ろに、黒い翼が一瞬だけ見えた速水。
「まあ、とにかくこれは受け取ってくださいね。速水先生と田口先生だけでなく、東城大学医学部付属病院の平和のために…」
 最後はごり押しだった。さすがに、速水も遠慮しますとは言えずに、黙って受け取る。
「ああ、田口先生の当直は兵藤先生に言って外して貰っていますので、楽しいお正月を過ごしてくださいね」
 速水がドアから出る寸前に、後ろから届いた高階の最後の一言。
「相変わらず、真っ黒狸には勝てないっか。あの人を敵には絶対に回したくない」
 廊下でそっと呟いた速水だった。

 その夜。
「速水、これ何?」
 ダイニングでテーブルの上に置かれた宿泊券に、田口が首をかしげた。
「高階さんから、俺とお前にお年玉」
「お年玉って、何を考えているんだろう。あの人は…」
 そう呟きながら、しっかりチェックをする田口。それを横目に夕食の準備をする速水。久しぷりのまともな会話である。
「俺もよく分からないが、突然呼び出されて渡された。今年もお前をこきつかった詫びじゃないのか?」
 本当のことは言わずに、速水は田口に振り返ってウインクした。
「お年玉ねぇ。いまさら、お年玉って歳じゃないけど、俺も速水も」
 などとぶつぶつ言っているくせに、嬉しそうなのは見え見えだった。
「まあ、いいじゃないか。くれるって言うんだから、もらっておいても罰は当たらんだろう」
 適当なことを言って、速水は田口を言いくるめる。ようやく、田口の機嫌が直りそうなのだ。
「そうかなぁ」
 まだ、田口はぶつぶつ何か呟いていた。
「そんなことより、きちんとシフト確認をしておけよ。当直だから行けませんなんて、俺は認めないからな」
「わかっているよ。明日、兵藤に連絡して確認しておくから…。それより、お前の方こそ大丈夫なのか?」
「俺はこっちに出張だから、大丈夫」
 行灯? 返事がないのを不審に思った速水がキッチンから田口を見れば、何やら熱心に指を折って数えている姿が見えた。どうやら、宿泊日程を数えているらしい。
 可愛い奴。
 田口が拗ねて速水を無視していたのは、速水が彦根経由の依頼で箱根駅伝の救急班に呼ばれたことらしかった。しかも、それを内密に快諾した速水が自分に話してくれなかったことと、一人で行くつもりだったのが原因だと、速水は藤原看護師から聞いた。
 可愛い奴。箱根駅伝の生が見られるのは嬉しいが、仕事で行くのだ。田口を連れて行きたくても、自分が房総救命救急センターの代理として行く身分では、私用の我が儘は言えなかった。いつもと同じように昼から仕事だと言えば、正月といえど、田口も納得するに違いない。しかも、年末年始のシフト決定は十二月入って直ぐに決まるので、休みをつぶさない限り、文句はないだろうと考えていた。
 行灯がそこまで駅伝に嵌っているとは気づかなかったな。毎年、ずっと駅伝にチャンネルが合わせてあるのは、他が面白くないからだろうと思っていたが…。とにかく、俺が仕事で行くだけで、拗ねるなんてほんとに可愛い。
「お正月にはやっぱりそれなりの格好をしたがいいかな」
「別に寝正月にしてもいいんじゃないのか? どうせ朝食はおせちに雑煮だろうから」
「うん。だけど、一年の始まりに、寝正月もなんだけど…」
 行く気満々の田口。
「行灯。箱根は寒いから、その辺もしっかり準備しておけよ。年末年始は熱が出ても、病院は開いてないぞ」
「分かった」
 いくら優秀な救命医の速水でも、薬も機材も何もない状態で実力を発揮するのは至難の業だ。
「速水、ここに持って行くのを書いておくから、足りないのがあったら書き加えておいて。後で用意しておくから」
 田口がひらひら紙を振って見せる。
「分かった」
 何となく速水もうきうきしながら、返事をする。よく考えれば、田口と一緒に旅館で正月を迎えるというシチュエーションは、初めてではないか。しかも、豪華温泉旅館でなど。
 まあ、今回は高階さんに感謝かな。速水は、うきうきと自分の足下にやって来たうさぎの“ありす”に、「ありすも一緒に行けるかも、だって、ペット可って書いてあるからね」など話しかけている田口を眺めつつ、思った。

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    思いついた勢いで書いただけに、意味なしかも。単に箱根駅伝に拘る行灯先生を書きたかったんです。
でも、思いついた内容は違ったような。お礼ssにしようかと思ったぐらい短いものだったけど、どうせならと書き始めたら…。
何が書きたかったのか。見事に忘れました。
 平成22年1月17日(日) 作成・掲載
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