彼が北へ行けなかった理由 13 本文へジャンプ

 松葉杖の田口は速水の手伝いがないと、ろくに歩けない。特に、困るのが入浴で、とても一人では入れない。ものぐさ田口にしてみれば、人間、垢じゃ死なないなので、数日風呂に入らなくてもいいけど。などと思っていたりするが、それはとても口にできない雰囲気…。
 しかも、極楽病棟の看護師たちが『お風呂だけはここで入っていったらどうですか。介助は任せてください』と、そろいも揃ったうきうき顔で言われ、絶対に彼女たちのお世話にはならないと、心に誓った田口だった。
 そして、それを整形外科病棟で愚痴ったら、『女性の看護師が嫌だったら、うちの男性看護師に手伝わせましょうか?』と、渡邉に、にんまり言われ、それも丁寧に断った。
 しかも、どこで噂が広まったのか。田口が“入浴介助をしてくれる優しい人を探している”と噂になり、整形外科病棟にはひっきりなしに『お手伝いします』のメールや電話が届き、通常業務に支障が出る羽目になった。そのため、業を煮やした速水が、
「田口先生の世話は、私が責任を持って、面倒見るので、みなさん、ご安心くたださい」と宣言した。

 その結果、今度は『田口先生が速水先生について、極北市に行くらしい』との噂が院内を駆け巡った。

「速水先生。極北に田口先生をお連れするという噂が、誠しめやかに、飛び交っていますが…。先日は、行かないとの連絡をいただいて、驚いているのですが」
 高階病院長は病室で田口を構い倒している速水を、年末休業中の病院長室に呼び出し、ずいっと詰め寄った。
「行かないくていいのなら、行きたくないのですが…。でも、私は立場上、行かないと駄目でしょうから、行きます。田口を連れて行けるのなら、連れて行きたいです。でも、田口はここを離れたがらないので…」
 さすがに、速水も本音をばらす。
「まあ、田口先生のあのずぼらな性格では、自分からここを出て行くとは考えられません。あなたが田口先生の面倒を見てくださるのは、とてもありがたいことですが、極北もあなたが来るのを待っているので、あまり待ったを掛けるのは、どうかと思うんですよ。
 速水先生。本当に極北に行くつもりなんですか?」
 高階は速水が『極北へは行かないと伝えた』のを本気で受け取っているわけではない。速水が、あれほど外科医として理想的な思考を持つ速水が、たぶん、人生で初めて迷っていると気づいている。だから、『行かない』と高階に連絡したにも関わらず、行くと言っているのが分かっていた。
「…。行かないと、東城大の顔を潰します。ですが、あの状態の田口を一人にはできません」
「ですよねぇ。困りました」
 もったいぶった病院長は、窓の前に立ち、桜宮市街を眺める。田口は速水に置いて行かれても、こっちで面倒を見ればいいだけで、人手は十分にある。要は速水速水が田口の怪我を口実に、田口から離れたくないだけだ。と、高階は知っている。
「では、いっそのこと、速水先生も極北に行くのを辞めたらどうですか? どうせ、田口先生が、あの状態からいつ復帰できるのか。整形外科も分からないと言っていますことですし…。
 極北には事情が変わりましたといって、他の誰かを出すなり、今回は断ればいいことですから…。どうでしょう?」
「……」
 と言われても、速水には返事のしようがない。病院長の命令で極北に行く波目になり、いったん、速水はそれを取り消せないかと相談をし、今度は病院長自らそれを取りやめるとは…。しかも、その理由が田口で、いいのだろうか?
 そう判断できるぐらいには、速水にも世間の常識がある。
 本当に行かなくてもいいのか? と、速水はまじまじと高階病院長を見つめた。
「ぶっちゃけて本音をばらすと、私は速水君を極北なんかに行かせたくないんです。あなたはこの桜宮にとってなくてはならない存在ですし、東城大学医学部付属病院救命救急センターには絶対、必要な救命救急医だと、私は思っています。でも、あのような事があれば、病院のトップとして私は処分しなくては示しがつきません。ですが、あなたを自由にしてしまえば、渡海先生のように世界の果てに行ってしまうかもしれません。
 だから、あなたが東城大学から逃げられないよう足かせを付けようと考えました」
「それが、極北救命救急センターへの出向だったんですか」
「そうです。でも、田口先生の怪我でいいことを思いつきました。あなたが迷っているのは、ここを離れることではなく、田口先生と離れなくてはならないことのようですから。まあ、なにも知らない田口先生にはお気の毒ですが、この辺りで今までの恩を返していただいてもいいかもしれませんね。
 そのためには、あなたのプライドを捨てて貰わなくてはいけませんが、もれなく田口先生が付いてくるのですから、損はないと思う取引です。いかがですか?」
 そう言って、高階が重厚な机の引き出しから取り出したのは…。結婚届と結婚証明書。
「これは…何ですか?」
 速水は絶句する。
「見てのとおりです。私が極北救命救急センター所長の桃倉君に、あなたが行けなくなった理由を説明しないといけません。でも、桃倉君を納得させるだけの材料というと、なかなか思いつかなくて、で、大人の事情として説明すると簡単でいいと気づきました。
 そんなわけで、速水先生と田口先生が、実は同性同士の事実婚で、田口先生が怪我をして動けないので、速水先生の極北救命救急センター行きはなしと、今回はなし。その事実を突然告白された私はびっくりぶっ飛んで、ショックのあまり寝込んだと…。
 この辺りは事務長と黒崎先生にがんばって貰います。いかがですか?」
 えへっと、威張る高階病院長に、速水はくらりとめまいがした。
「待ってください! 本気ですか?」
 速水が叫んだ。
「本気も本気です。もっとも、これを作ってもお役所は受け付けてくれませんから、私が地下金庫に証拠として大切に保存しておきます。もちろん、正式の印を押して、我が国で同性婚が認められるのを待つ旨を、私が自筆で書きます。
 どうでしょうか?」
 速水はまじまじと高階病院長を見た。この人はどこまで、何を気づいているんだ? 改めて、自分の上司の恐ろしさに速水は身震いした。
「別に私は速水君が田口先生を愛していても、まったく気にしませんので。あのぼんやり昼行灯君を少し世俗に塗れさせることができるのなら、煮ようが焼こうが、勝手にしてください。
 まあ、ただし、肉体関係はほどほどにしておいてくださいね。肛門科の医師から苦情を貰うのは勘弁したいので、それと、外用麻酔薬をこっそり持ち出すときは私に伝票を回してください。それぐらい、救命救急センター部長の権限では簡単でしょうから…」
「………」
 ぽかん。速水晃一のアホづら。それはこの先、二度と見られないほど、傑作なものだった。


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    狸、本領発揮です。でも、速水先生は署名を直ぐにするでしょうが、行灯君にはどうやって自筆で書かせるか。
誰かいい方法を考えてください。思いつきません…。よろしくお願いします。
 平成23年3月27日(日) 作成・掲載
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