彼が北へ行けなかった理由 11 本文へジャンプ

 速水はよいしょと、田口の体を寝室のベットに乗せた。
「…ん?」
 硬いリビングと違う感触からか、田口が目を覚ます。そして、側で自分を見つめる速水を見つけると、
「速水、一緒に寝よ」
と、手を伸ばした。
「お前って奴は…、いい加減にしろよ」
 速水は本気で怒りかけるが、酔っぱらいには怖いものなし。
「はっやみぃ。こっちこっち…」
と、手招きする。その凶悪なまでに可愛い仕草に、速水は一度目をつぶると、細い体を両手で軽く押さえつけた。
「お前は…。いい加減にしないと、本気で襲うぞ」
 真剣な目で、田口を睨み付ける。が、酔っぱらいは、にへっと笑うと速水に抱きついた。
「…はあ」
 速水はため息。この野郎。まじで襲ってやろうか。俺に行くなって言う前に、お前を出勤できなくしてやろうか? 獣になりかける速水だった。だが、意識のない田口に手を出せるはずもなく、速水は自分に抱きついた田口を眺めると、どつくさに紛れて、ちゅっちゅっとキスを繰り返した。
「俺はようやく、お前を愛していると声を出して、言える気がする」
 速水は何かを振り切ったように微笑むと、腕に田口を抱いて、自分も久しぶりに電話で起こされない平和な睡眠に浸ったのだった。

 翌朝。田口は別段、速水が自分の隣に寝ていても気にする様子も見せず、自分を起こした目覚まし時計を手にした。そして、真っ青になった。
「やばっ。遅刻だ。速水が休みなのをすっかり忘れていた。今日は日勤なのに…。しかも、御用納め。遅れたら、兵藤に何て噂されるか…」
 ばたばたと、リビングと荷物をおいた客間と、洗面所を往復しながら、騒ぐ。
「うるさい、行灯。慌てると、怪我するぞ」
 滅多にない休みを堪能する速水は、田口の叫びに目を覚ますと、優雅にキッチンへ向かう。そして、のんびり朝食の用意を始めた。
 とは言っても、所詮、速水のレベルだ。トーストを焼いて、コーヒーを飲むぐらいだが…。一応、田口の分も用意したが、それどころではないらしく、田口は家の中を右往左往していた。慣れない速水の家で、田口は勝手が分からないのだろう。無駄な動きが多い。もう少し、落ち着いて順序を決めて行動しないと、どこかで失敗するじゃないかと思い、速水がもう一度、声を掛けようと、田口の後を追うべく椅子を立ったところで、
「うわっ!」
と、田口の大声が聞こえた。そのすぐ後に、ドタッという何かが倒れたような派手な音が続いた。
「おいおい。言った側から、転ぶなんて、お前は吉本新喜劇かよ」
 笑いつつ、速水が音のしたところを覗けば、田口が崩れた段ボールに埋まっていた。本が入った段ボールが破れて、分厚い医学書が散乱し、その間から、助けて〜と田口の手がかろうじて動いていた。
「大丈夫か!」
 速水は慌てて、田口の細い体を本と段ボールから引き出した。
「…はやみぃ。足痛い〜」
 救出された田口は、涙目で速水に訴えた。取りあえず、自分の名前を呼んだから、意識は大丈夫と判断する。そして、泣くぐらい痛いのかと焦る。だが、そこは救命救急医。
「ちょっと、見せてみろ。勝手に動かすなよ。素人が勝手に動かすと、ズレが悪化するぞ」
 速水は内心の焦りを見せずに、冷静に状況を把握する。引き出された田口の右足首はだらりと、下向きに垂れ下がっていた。それも異常な角度で…。一目見て、速水は折れたなと思った。関節の骨折は厄介だ。しかも、リハビリも面倒だ。このものぐさ行灯に、よりによって骨折?が正直な速水の叫びだ。
「痛くて、動かせない…」
 田口の訴えは無視して、速水は足に余分な負荷を掛けないよう注意しつつ、素早く触診して、大きなため息をついた。
「大丈夫だよな。折れてないよな」
 痛みのためか。涙目からほとんど泣いている状態の田口が、速水に尋ねる。それが希望的観測でしかないのを、速水は分かっている。奇跡的に(十中八九、折れていると速水は思っている)骨折していなくても、重症の捻挫だろうから、数週間のギブス固定は逃れられないだろう。
「だったらいいけどな」
 速水はさらりと田口の希望的観測を流して、携帯電話を手に、今になって自分がするとは思わなかったある番号を押した。
「佐藤ちゃん? 速水だけど、今、大丈夫か? 実は田口の奴が段ボールの下敷きになって、足を痛めたらしいんだ。取りあえず、連れて行くから、MRIとCTの準備をしておいてくれないか?」
 えぐえぐと泣く田口の髪を撫でながら、速水は簡潔に指示を出す。
「速水ぃ、俺どうなる?」
 速水と佐藤の会話で、自分の怪我が楽観視できないのを悟ったらしい田口は、速水の服の端を握って離さない。
「とにかく、オレンジで検査だ。全く、自分の荷物に埋もれるってどういう事だよ」
 ぶりぶり怒る速水。それに、しゅんと田口が小さくなる。
「だってぇ。着替えが見つからなかったから、探そうとしたら…」
「着替えなんか探している暇あるか。取りあえず、俺のを着とけ。極楽病棟には後で連絡してやるから、早く着替えろ」
 速水はクローゼットから適当に自分の服を探すと、田口に投げた。
「これ速水のだから、でかいけど」
 速水が財布だの、保険証だの、コードだの上着だのマフラーだの、ついでに足首を固定できるような分厚い段ボールを持って来たとき、田口はよれよれしながら、速水の服を着ていた。ズボンはどうせ脱がされるのだから、ジャージをはかせる。ざっくりとした速水のセーターは田口には大きすぎるようで、速水は田口の荷物からトレーナーを探し出すと、それを下に着せた。
「この状態で文句を言う身分かよ。とにかく、あっちで佐藤ちゃんがスタンバっている。直ぐに移動するぞ」
「えー。そんなにひどいのか?」
 この期に至っても、田口は涙目のまま、脳天気だった。
「自力で立てない奴は、黙ってろ」
 涙目の田口にタオルを渡して、上から自分のコートで細い体を包み込んで、速水は田口を両手で姫抱っこして、マンションからオレンジ新棟へと向かった。

「速水先生、準備できています」
 速水が患者搬入口に自分の車を着けたとき、オレンジ一階の見慣れたメンバーが、わらわらとストレッチャーと共に寒空の下、待っていた。
「悪いな」
 速水は軽くスタッフに挨拶すると、田口を丁寧にストレッチャーに乗せた。そして、待機していた整形外科医の渡邉にくだんの足首を見せた。怪我をして間もないにも関わらず、田口の足首はかなり腫れ上がり、色も青や紫に変わっていた。
「これは大変でしたね。田口先生。痛くないですか?」
 渡邉の言葉に、田口は気丈にもにっこり笑った。しかし、手は握ってきたタオルを強く掴んでいる。そして、
「痛いけど、痺れてよく感じないかも」
と、明るく言った。それに、佐藤と速水は互いに見合って、頷きあった。絶対に折れていると、二人は黙認した。
「速水の奴は大げさですよね、佐藤先生」
 田口が何かを感じたのか。佐藤へと目を向けた。
「いいえ。田口先生、たぶん、これはしっかり折れていると思いますよ。手術を覚悟しておいてください」
 佐藤は速水に代わって、現実を田口に突きつけた。田口が受けるショックは予想できる。だが、それを速水が癒せるのも佐藤は薄々確信していた。
 そして、これはジェネラル・ルージュをここに引き留めるチャンスではないか。と瞬間考えた。この際、がーん。と、声がするぐらい田口が硬直しているのは無視することにした。



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   なんてこったい。年末に行灯先生。骨折です。
これは縁起がいいのか。悪いのか。多分、ジェネラルにはラッキーかも。
平成23年3月13日(日)  作成・掲載
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