彼が北へ行けなかった理由 10 本文へジャンプ

 速水が極北に行くのをやめたいと、高階に伝えるのは早かった。田口から『行かないで欲しい』との言葉を引き出した後、即、自宅のトイレから高階の携帯に直接、電話した。
「…そうですか。極北には行きたくないと、おっしゃるのですね。その件については、後日、もう一度、話し合いましょう。幸い、もうすぐ冬休みですから、私の方から極北へは手続き上のトラブルで赴任が遅くなると、連絡をしておきます。
 詳しい話し合いは年始の時にでも…。ああ、その時は田口先生は置いて来てくださいね」
 腹黒狸は全ての結末を知っているかのような穏やかな声で、速水に応対した。
「これを…すでに予想していたとか? まさかな…」
 速水はトイレのふたに座って、首を捻った。自分が田口に抱く執着に、自分よりも早く気づいている者がいるなどと気づかない速水だ。彼の田口に対する態度が、立派に恋する男でしかないのを気づいていないのは本人ばかりなり。とは、黒ナマズこと、黒崎誠一郎教授だったりする。
 速水が一波乱のあったリビングに戻ってみると、田口が例の枕で眠っていた。すぐ側には、ウイスキーの瓶が空になっていた。どうやら、速水が目を離した隙に、飲み過ぎてつぶれたらしい。田口にとって、速水に行かないでというのは、辛い一言だったはずだ。事なかれ主義で、生き馬の目を抜くようなラビンスの大学医学部の付属病院で、病院長命令とは言え、世間をあっと言わせるほどの腕を見せるだけの力を持っているのを、ひたすら隠している?のだ。出る釘は打たれるどころか、田口は釘すら見ないようにひっそり息を潜めて生きている。
 そんな田口が親友とは言え、速水の去就を、しかも病院長命令を覆させるような行動を取らせるはずはない。自分の一言が、速水の一生を決めるなど、耐えられるはずもなし。ああは言ったものの、自己嫌悪でウィスキーをがぶ飲みしたのは、速水にはよーく理解できた。
「おい、行灯。ここで寝るなよ」
 速水は苦笑しながら、まい・枕にしがみつつ、リビングの床に転がる田口に声を掛けた。
「うーん。速水ぃ、ねむぃ」
 とろんと目を開けた田口が、速水によれよれと手を伸ばす。
「行灯、起きろ」
「…いや」
 田口は嫌々をすると、舌打ちしつつも、自分の顔を覗き込もうとした速水の首に、手を伸ばして抱きつくと、すりすりと甘える。
「お前、なに甘えているんだよ」
 田口はあの酒量がある一線を越すと、やたらと甘え出す。その甘えぶりは半端でなく、ノーマルな男ですらちょっとよろめかせるぐらいの破壊力を持つ。なので、学生時代、速水と島津、彦根は田口が間違って、変な人間にお持ち帰りされないよう警戒を怠らなかった。
 周りの指導もあって、普段はここまで酔うほど、決して酒を飲まない田口だが、今日は仕方がないだろう。
「はやみぃ?」
 舌っ足らずの声で、だっこなどと言う田口。
「お前は…」
 凶悪なまでに可愛い酔っぱらい田口に甘えられた速水は、理性は崩壊寸前。だが、ここで、ぐっと踏みとどまるところが、いいのか。悪いのか。誰にも分からない。
「……」
 大人しくなったので、速水は眠ったのかと思い、田口を抱き上げようとした。すると、
「はーやみ」
と田口が呟いた。
「だから、何だよ」
「へへへっ」
 田口は意味なく上機嫌のようだ。酔っぱらいの扱いはオレンジで慣れている。しかも、相手は田口なのだ。速水は自分の首に田口の腕を巻き付かせたまま、よいしょと田口を抱き上げた。思った以上に酔っぱらいは重かった。それでも、田口ぐらいは姫抱っこで運べるぐらいに、速水はオレンジ勤務で鍛えられている。
「酔っぱらい…」
 と、ぼやくと、田口はむにゃむにゃと意味ないことを口にして、速水の体に擦り寄ってくる。滅多にないが、酔っぱらって前後不覚になった田口は、めちゃくちゃ可愛い。と、速水は思っている。いや、他にもそう思っている輩が結構たくさんいるらしいのを知っている。
 医学部付属病院の年度初めの歓迎会などは、なぜか田口の周りに人がひしめく。そして、ぼやっとした田口が注がれる酒を断る時間を与えないよう結託しているかのごとく、ひっきりなしに飲ませるのだ。そして、いい加減できあがった田口に同期のメンバーが気づいて、救助に向かうのが恒例になっている。
 まったく、油断も隙もない。というのが、速水同様、島津の口から漏れたとき、速水は田口死守のために、彼が参加する飲み会には必ず出るようにした。結果、田口からは『お前のせいで、もてない』と愚痴られる羽目になったが、そんなもの田口の貞操を守るためには羽よりも軽い。
 なので、速水の前で、田口は甘えまくりだ。速水は甘えたに変身して、速水にべったりくっつく田口に、端整な顔を僅かに上気させて、額にキスする。
「まったく、お前は俺をなんだと思っているんだよ」
 ぶつぶつ。文句は口から漏れるが、それは誰も聞いたことがないように甘ったるかった。


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       まだ年末。公務員の冬休み中に収拾は付くのでしょうか?
でもって、酔っぱらった行灯君。オオカミ・ジェネラル・ルージュが君を狙っているのに…
 平成23年3月5日(土) 作成・掲載
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