彼が北へ行けなかった理由  本文へジャンプ

「俺が行かないでって言ったら、お前は行かないのかよ」
 田口が速水に挑戦的な声で言った。
「ああ。お前が本気で俺に行くなと言うのなら、行かない」
 速水は即答する。それぐらい、田口が大切なのだ。多分、田口は自分がいなくても生きていけるだろうと思っている。でも、自分は駄目だ。ジェネラル・ルージュと言われ、桜宮の救命救急を一手に引き受けて来られたのは、自分が強いからでも何ともないと速水は気づいていた。若い頃は理想を追い求めて、がむしゃらに走るだけでよかった。でも、ある日、そんな自分の道が見えなくなった。来る日も、来る日も重症患者に向かい合っていると、ふと神経が切れたようになってしまうときがある。
 そんなとき、速水は必ず田口に会いに行った。彼の前では、愚痴もぼやきもふて腐れても、ジェネラル・ルージュではない素の速水晃一でいられた。
「本気か?」
 田口が驚きに彩られた顔で、聞き返す。
「ああ」
 速水は大きく頷いた。
「そんなの嘘だ」
 田口が即座に否定する。速水はなぜ田口が否定するのか分からず、目を眇めた。
「嘘じゃない。俺にとって、お前が一番なんだ。だから、お前だけが俺にそう言うことができるんだよ」
 まるで、恋した女性を口説いているようだと思いつつ、速水は田口に告げた。
 田口はじっと身動きもせず、速水を見つめた。
「何で?」
 その目にうっすらと涙が浮かび、田口が泣き声で尋ねる。速水は直感で、田口の中における自分の位置を理解した。
 こいつにとって、俺は友人という言葉では表せない位置にいる! 友人なら、北と南に別れても、耐えられるはずだ。でも、こいつは俺が行かないと言うのを待っている。それは…。絶対に、友情で片付けられない感情だ!
 速水はなんとかして田口を自分の側に置くよう、怜悧な頭脳を動かす。
「その理由を聞きたいか? だけど、聞いたら後には引けなくなるぞ。それでもいいのなら、聞けよ」
 挑戦的な速水の態度に、田口がちょっとたじろいた。
「理由を聞かなくても、お前は俺がここに残ってくれと言えば、残るのか?」
 田口がもう一度、速水に確認した。速水は田口から、自分が欲しい言葉を引き出せそうだと判断する。そうなると、田口に言わせたくなるのは仕方がないかも…。
「基本的には」
 にっこり誰もを魅了する笑顔を見せながら、速水は田口を絡めていく。
「何で?」
 だが、速水の計算された笑顔に免疫のある田口は、まず、自分の聞きたいことを口にして、ちょっとだけ頬を染めた。
 もう少しだ。ブラックな速水がにんまりする。
「それはさっき言っただろう。お前が一番だからと…。この耳はなーにを聞いていたんだよ」
 速水は田口の耳を引っ張って、そこに囁いた。こうなりゃ、色気も総動員だ。ブラック速水、田口を確保するためには手段を選ばず。
「痛いって、速水。でも、そんな理由、ありかよ?」
 速水に耳を容赦なく引っ張られた田口は、今度は文句を並べた。いやいやする姿も、速水には可愛い。
「お前はなにも悩まなくていいんだよ。決めるのは俺なんだから。それに本当は…」
 そこで、速水は言葉を切った。続くのは、それに本当は高階さんだって、俺が残ることを望んでいる。である。だてに、高階病院長とン十年も付き合っているわけではない。
「どっちにしても、お互いに損はないだろう? お前は俺に残って欲しいと思っている。俺はお前を連れて行きたいと思っている。論点は、俺たちは互いに一緒に居たいということだろう。でも、お前はここから離れたくない。なら、俺が残ればいいわけだ。
 違うか?」
「…違わない」
 速水が理路整然と問題点を洗い出して、その解決策を田口に提示すると、ぶすくれながらも、田口は同意した。最初から、答えは出ていた。それを田口が認めなかっただけだ。
「なら、利害が一致したということで、俺がここに残る。で、いいな」
「……」
 他に方法はないくせに、田口はうんと言わない。代わりに、彼はじっと自分の指を見つめて、顔が泣きそうに歪んだ。本当は一緒に居たいのに、そう言えない田口の気持ちも分かる。だけど、それを待てるほど、速水には余裕はなかった。
「行灯。いいと言えよ。じゃないと、俺は極北に行くぞ。もしかしたら、そのまま、帰ってこないかもな」
 速水は田口を追い詰める。彼はどうしても、田口自身の声で、行かないでくれと言わせたかった。そうでなければ、田口の言葉に意味がないのも知っている。
「…いい…」
 蚊の鳴くような声で、速水の腕を掴んで、泣きそうになりながら田口が言った。
「ありがとう…」
 愛している。と続けたい言葉を、速水はぐっと飲み込んだ。
 速水は今回の極北行きが決まって、自分がどれほど田口を必要としているか思い知った。それは、愛と言うよりも執着といった方がいいかもしれない。側にいるのが、当然だと思っていたから、気づけなかった何よりも大切な存在。
 俺はこいつに殺されるなら、笑って死ねるだろう。俺はこいつが目の前で死んだら、気が狂うだろう。今回、北と南に別れることになって、初めて速水は気がついた。
 ここで別れたら、二度と二人の道は交わらないかもしれない。それは救急救命センターに運ばれる数多くの患者を診て、知っているはずだった。明日も今日と同じ日が続くとは限らないのだと。


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   速水先生の行灯先生に対する思いは、愛の一言では語れません。うちのジェネラルはこの世の全ては行灯です。
でも、もう少し早く気づけばいいのに、日々の忙しさにかまけていると、誰かに行灯先生取られるってば。
平成23年2月28日(月) 作成・掲載
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