彼が北へ行けなかった理由 5
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 速水はもうすぐ手放す院内PHSを手にすると、短縮1番のボタンを押した。田口は気づかないだろうが、速水の電話番号のトップに登録されているのは、いつも田口だった。
「はい。田口です」
「…行灯。お前、家なき子だって? 行き先は決まったのか?」
「速水…。なんで知っているんだ?」
「そんなの、たぶん、病院中が知っているんじゃないか? 俺の耳にまで届くぐらいだからな…」
「…みんな、暇だなぁ」
 お互いにそんなことを言いたいんじゃない。それに、お互いに気づいていながら、なかなか口に出せずにいた。
「で、決まったのか?」
 やはり待てなかったのは、速水の方だった。
「まだ。って言うか。アパートは出ないといけないから、病院の独身寮が空いているか聞いて貰っている」
「そんなあやふやな返事を待つより、俺ンとこに来ないか? 病院の独身寮って、築数十年もんで、すっごくぼろいぞ。それより、俺ンちが綺麗だぞ」
「うーん」
 それは田口にとって、ちょっと魅力的な申し出だった。何しろ、速水のマンションから徒歩一分ほどにスーパーマーケットにコンビニが揃っている。しかも、バス停も直ぐ側にある。
「俺もお前が居てくれると、色々な面で安心できるし…。どうだ?」
「確かに…」
「だろう? 今から、直ぐにでも来て良いぞ。俺は転勤準備で年明けまで休みだしな」
 さすがに身一つでの転勤は無理でしょうから、年内は引っ越し準備をかねて、お休みされて良いですよ。と、病院長に言われた速水だった。島流し満了の3年後に戻って来るつもりなので、荷物は最小限にしようと思う。どうしてもいるものだけを運んで、残りは置いておくつもりだった。それに、田口がいれば、その都度、送ってもらうことも可能だ。
 などと、都合の良いことを考えていたりする。
「うーん。でも、引っ越し準備で忙ししいのに、俺まで転がり込んだら、もっと忙しくならないか?」
「でも、お前は日中仕事に行っているから、その間にしておけばいいだけで、夜まで働きたくない」
 本業以外での速水の勤労意欲のモチベーションは、非常に低い。低すぎて、目も当てられないが、オレンジ新棟スタッフの認識になんっているぐらいに。
「言われてみれば…」
「だろう。それに、お前が荷物を入れるのは、俺が出て行った年明けでも十分間に合うだろう。それぐらいまでは大家も待ってくれるだろうし…」
「そっかぁ」
 速水の下心に気づかない田口は素直に頷いた。
「とにかく、考えておけよ。そう言えば、島津も心配していたぞ」
 もう一人の親友の名前を挙げて、速水はPHSを切った。本当はもっと田口と話していたかったが、急患が来る予感がしたのだ。
 今日はこれで行灯と話す時間は終わったな。そう本能が囁く。もう少し、田口に駄目押しをしたかったが、後は島津に託すことにした。言い出しっぺは島津なのだ。奴が上手く田口を言いくるめるのを期待して、速水は部長室から戦場へ向かうべく立ち上がった。


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    さて、将軍の下心アプローチにまんまと引っかかった田口先生。
たぶんこの後、悪役トリオの島津先生に説得されてしまうんでしょうね。みんなそれぞれに暗躍しています。
平成22年11月20日(土) 作成・掲載
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