将軍の家出 02 (将軍×行灯) 本文へジャンプ

「ただいまー」
 田口が久しぶりに実家に帰ると、父親の右足に包帯が巻かれて、氷袋が乗っていた。
「どうしたのそれ? まさか、骨折ってことは?」
 こたつではなく、その横に座っている父を前に、田口は手にしていたバスケットを床に下ろした。
「捻挫と思うがな。電球を付け替えようとして、脚立から足を滑らした…」
 苦笑する父親に田口は近づくと、氷袋と包帯を外して、患部をざっと視診した。
「骨折していないっていうのは、レントゲンを撮らないと分からないから、明日にでもうちの整形外科で診てもらったがいいと思うよ」
 神経内科の医師である田口は、整形外科の患者に会う機会などなく。その知識とは、素人に毛が生えた程度と自分でも自覚している。ここは自分の判断ではなく、こんなのに慣れている男に連絡することにした。
「…。速水? 父が足首を捻ったみたいで、氷で今、冷やしているんだ。悪いけど、湿布とか持って来てくれないか?」
『今、オレンジを出たばっかりだから、こっちに連れて来いよ。捻挫って、甘く見ていると、後が大変だぞ』
「まあな。だけど、命に関わるものじゃないから、明日でいいよ。それより、せっかくオレンジを出たのに、ここで戻ったら、また、オレンジに拘束されかねないだろう。だから、そのまま、こっちに来いよ」
 田口は目の前で、行かないと手でバツを作る父親と、速水の名前を聞いて、顔を輝かせる母親を前にため息が出そうになる。
『…。分かった。取りあえず、役に立ちそうなのを見繕って持って行くわ。あと、忘れ物はないか?』
「たぶん、ないと思う。ありすのお泊まりグッズも持って来たし…」
『じゃあ、あと30分ぐらいで着くって、言っとけよ』
 へいへいと、返事をした田口は携帯電話を切ると、
「一応、速水が応急処置をオレンジから持ってくるから、あと30分はこのままでいて」
と父親に説明した。
「速水君が診てくれるのか? それは心強いな」
 安心した顔の父親に、田口は俺だって医者だと言いたくなる。同じ医者にも関わらず、この信頼度の違いは何だ。と、自分の親の実態を見せつけられ、田口はちょっとだけ凹んだ。でも、それが神経内科医と救命救急医への意識の違いなのだ。
 父親が今、必要としているのは神経内科医の自分ではなく、外科医の速水なのだ。もっとも、速水も専門は整形外科ではない。
「良かったわねぇ、お父さん。公平もお医者さんだけど、こんなときはやっぱり晃一君よね」
 学生時代から速水の大ファンだった母親は大喜びだ。一家に一人医者がいると便利と言われるが、田口のような専門医ではあまりにも守備範囲が狭すぎて、たいして?役に立たない。
 やっぱり総合内科医や北米型ER医の必要を感じる田口だった。もっとも、田口も大学病院にいるから専門科に関わっていられる。細分化された専門医と、速水のような高度な技術と診断力を持つ救命救急医、そして、ちまたで開業している家庭医。これらすべてがうまく連携しないと、市民が満足する医療を提供できない。しかし、それには医者の絶対数が足りない。東城大でも医学部の卒業生は、毎年、100人あまり。これを各科に平等に割り振っても、それぞれ一桁の人数にしかならない。単純に考えて、そうなるということは、現実はもっと厳しいことになる。
「今回は速水が役に立つけど、母さんたちがぼけたり、脳卒中になったら、俺が診てあげるから安心してよ」
「ぼけたときねぇ。それより、癌になる方が早いかも…」
「そんなぁ。これでも、東城大学医学部の講師なんだから、そんな実も蓋もないことを言わなくても…」
 普段、他人の愚痴を聞いている田口が、母親に愚痴る。
「でも、日本人の四人に三人は癌になるのでしょう。だったら、公平ちゃんより外科医の先生にお世話になるじゃない。おかあさん、晃一君みたいなイケメンの主治医がいいわぁ。その時はちゃんと紹介してよ」
「母さんが好きな韓流スターのような医者が、そうごろごろしているはずないでしょうが。うちで一番いい男は速水なんだから」
「でも、速水君の主治医はいやだわ。だって、裸見られちゃうもの」
「……」
 田口絶句。母親と言えども、女は女だったというわけだ。
「分かったよ。その時は病院長に頼んで、イケメン外科医がいる病院を探してもらうよ」
「良かったわぁ。それにしても、開業しているお医者さんに神経内科っていう看板は見ないから、公平ちゃんの科はよっぽどマイナーな科なのね。大学病院にしかない科で将来大丈夫なの? お医者さんのブーなんてお母さん、恥ずかしすぎるわ」
 世間一般の常識?を語る母親は、田口に医者としての期待はしていないと目で訴えていた。
「それは誤った見解。神経内科は市民病院の外来では、内科に分類されていて、ちゃんと専門の医者が大学から週に何度かやって来ているの。それに母さんが思うほどマイナーな科じゃないの。脳外科などとのタイアップもある、今、注目の診療科なんだから。
 外科にしても大学病院じゃ、臓器統御外科と消化器外科の二つに大きく分かれているけれど、実際はさらに細かく、心臓血管とか、胸部外科とかに別れてる」
「ふうん。ろいろいろ面倒ねぇ、大学病院って。だから、どこにかかったらいいのか分からなくなるのよ。それにすっごく待ち時間が長いし…」
 母はここぞとばかりに日頃?の不満を息子にぶつける。確かに大学病院の外来診療科の名前はよく分からないのが多い。田口も?と思う科があるのは認める。患者数が少ないにも関わらず、検査も多く、待ち時間も長い。
 それも、ほとんどの患者が紹介で訪れているからに他ならない。熱・下痢・嘔吐などはっきりした症状のある患者など珍しく、むしろ紹介されて来た患者自身が、どうしてこの科を受診しているのだろうと思っていたりする。それぐらい大学病院の専門科は細分化されていて、ときには複数の科にわたる場合もある。
「紹介状ひとつ読むのだって、結構、時間がかかるし。添付資料の量も半端じゃないし…」
 思わず、自分たちを弁護してしまう田口だった。患者はみな待ち時間が長いと言うが、一人10分だとしても、1時間で診られる患者数は6人だ。、午前中、3時間の外来だとしたら、6人×3=18人となる。とてもじゃないが、裁けない。3時間待って、3分診療はいただけないが、せめて1時間待ちで10分ぐらいだったらどうだろう。実際はそれすら難しいのだが…。
 そんな会話を親子でしていると、『ただいまぁ』と声が玄関から届いた。母親は直ぐに『晃一君?』と言うと、出迎えに走って行った。田口は自分と速水の待遇の違いに苦笑した。

「ごめんなさいねぇ、晃一君。お父さんの足、そう酷くないのに、公平ったら、大げさにして…」
 聞こえてきた母の声に、してない、してないと田口は呟く。隣で父も苦笑い。
「いや、田口が連絡してきたから、用意が出来たんで…。それがなければ、私も何もできないと思います」
 謙虚なことを口にしつつ、速水がやって来た。片手に東城大学獣医学部付属病院救命救急センターのロゴ入りバッグを持っている。どうやら、ドクター・へりなどで利用する機材を、オレンジから持って来たらしい。
「こんばんは。ご無沙汰しています。痛みはありますか?」
 救急医らしい素早い対応だ。
 いや~、久しぶりだねぇなどと、田口の父親が言うのを横に、速水の視線は田口に状況を報告しろと迫った。
「電球を取り替えようとして、脚立から足を滑らせて、右足首を捻る。痛みのため、自力歩行は不可。しかし、可動は僅かながら可能。痛みは足首に集中して、他はほとんど痛みなし。感覚、および血行障害は認められず、受傷直後から現在まで冷却。時間にして、45分ほど」
「的確な報告、ありがとう。今日の所はレントゲンなどがないので、骨折に準ずる応急処置をしておきますから。痛みがなくても、明日必ず整形外科で診てもらってださい」
 速水は持参したバッグを開けると、中から足首を固定するためのシーネを取り出し、田口を助手にてきぱきと作業を始めた。
「ありがとう、速水君。おかげで少し楽になった」
 骨折や捻挫の場合、患部が動かないようしっかり固定されると、徐々に痛みが治まる。
「あと念のために、痛み止めを出しておきます。寝る前に飲んでください」
 速水は田口の父親に薬を渡した。安堵の顔で頷く父親に、田口も肩の力を抜いた。
「これで安心ね、お父さん。それじゃあ、晃一君も揃ったから、夕食にしましょうか。公平ちゃんは、先に荷物を片付けておいてね」
「はいはい。分かりました。じゃ、行こうか、速水」
 適当な返事をした田口はまず、ありすを移動用バッグからケージへと移した。そして、その辺に置きっぱなしだった荷物を手に、立ち上がった。
「行灯…」
「なに? 何か忘れ物?」
 自室に繋がる廊下で、田口が振り返ると、
「いや、ただいま♥」
 と、速水の笑顔と共にちゅっと頬にキスされる。
「ん。おかえり♥」
 田口も速水の頬にキス。
「んじゃ、お母さんも待っていることだし、ちゃっちゃと荷物を片付けるか」
 言ってる側から、速水が持参したスーツなどをクローゼットに片付ける。
「速水。お前、どんだけスーツ持って来たんだ?」
 病院の行き帰り以外は、ずっと術衣に白衣を引っかけた状態の速水なので、よほど病院外に出ることがあるのかと、ぼんやり田口は思った。
「う~ん。取りあえず、10日分かな。仕事関係の書類や本は、まだ車に積んだままだけど」
 速水の言葉に田口は、はあ?である。こいつ、本気で10日もこっちにいるつもりなのかと、呆れるやら、感心するやら…。
「まっ。どれだけお前がここに居ようが、俺は気にならないけど。よりによって、今日、けがをしなくてもいいのに…親父の奴」
「でも、考えによっちゃ、今日で良かったじゃないのか?」
「…言われてみると、そうかもしれない」
「だろっ?」
 速水は悪戯っぽい目で田口を見た。けがや病気は突然やって来て、誰も予想できない。田口と速水が帰ってきた日にけがをした父親は、ある意味、運がいいと言えた。
「それにしても、お前の部屋って、本当、色気ないよなぁ」
「あってたまるか。おかげで、お前が暴走しないから、安心しているよ」
 田口は自分の荷物をタンスやクローゼットにしまう。
「まあ…な。けど、お前の実家って、お前がいなくても安心できる」
 ぽふっと、田口のベッドに、速水が頭を乗せて呟いた。その様子に、田口は疲れているなぁと思う。速水…と呟いて、さらさらの髪に手を入れるが、起きる気配なし。目を閉じて、布団に懐いている彼から、普段垂れ流されている俺様オーラはどこにもない。あるのは激務に疲れ切った男がひとり。
「これって、いいな…」
「うん…」
 静かな時間がふたりの間に漂う。やがて、速水は目を開けると、ゆっくり身体を起こした。そして、田口に抱きつく。
「お前が好きだ。お前の家族が好きだ」
 そう言うと、速水は田口から離れ、お母さんたちの所に行こうと、田口の手首を掴んだ。

 二人が田口の両親が待つ和室に戻ると、夕食の準備が整っていた。こたつの上には、母自慢の手料理が並んでいた。
「晃一君。さあ、遠慮なく食べてちょうだい」
「そうだよ。毎日、それこそ、息つく暇もないほど忙しいのだろう。救命救急センターは…」
「ええ。でも、誰もなりたくて病気になるわけでも、けがをしたいわけでもないので、仕方ありません」
 速水は笑顔で答えると、並べられた食事に手を伸ばす。
「そうだね。…あっ、お母さん。ビール!」
 父が母に声を掛ける。
「あっ、今日はダメです」
 速水がすかさず父親を制した。
「捻挫は関節の中で、出血している可能性があるので、今日はアルコールはダメですよ」
「なるほど…。それじゃあ、晃一君と公平で飲んだらどうだ? 私に気を遣わなくていいから」
「いえ。いつ呼び出されるか分からないので、お茶でいいです。なっ、行灯?」
 速水の目は、俺がアルコール飲めないのに、お前が飲むってことはないよなと、田口に圧力を掛ける。
「お父さん。俺だけ飲んでも、美味しくないから、俺も今日はお茶でいいよ」
と、取りあえず、わがまま将軍のフォローをする田口。だが、内心では、何で自分の家に帰ってまで、速水のフォローをしないといけないんだと愚痴る。しかし、そんな田口の心を知ってか。速水がにっこり笑顔を向けた。
 何だかなぁと思った田口は、お茶入れてくるね、と立ち上がった。田口家では一番下っ端が、食事のときの雑用をするようになっている。本日の下っ端は田口公平。速水は一応客なので、該当しない。
 久しぶりの実家のキッチンで、田口はお湯を沸かす。お盆に急須と人数分の湯飲みを用意して、湯が沸くのを待つ。
 速水と自分の家族が仲良くするのは嬉しい。しかし、何となく後ろめたさだけは、どうしても拭えずにいる。両親は何も言わないけれど、何も気づいていないのか。それがずっと気になっている。なのに、何も言えず、何年もこうしている。
 自分の家で楽しそうに寛ぐ速水を見るたびに、あいつの家はどうなんだろうと思う。速水に聞いてみたい気もするが、速水の性格を知っているだけに聞くのが怖い。
 そんな田口の悩みなど、全く我関せずの両親と速水は相変わらず大騒ぎだ。
「もう、晃一君ったら、照れるじゃないの」
 母が頬を赤らめて照れていた。田口は何が起きたのかと、お茶をみんなの元へと運んだ。
「ちょっと、公平ちゃん。これ、お母さんにって、晃一君からプレゼントされちゃった」
 きゃっきゃっと喜ぶ母を前に、田口は?。すると、母が、
「やっぱり、公平ちゃんと違って、晃一君はおしゃれねぇ。ホワイト・デーのお返しですって…」
有名ブランドのエプロンを胸に当てて、似合う?と田口たちに見せた。
「お母さん! いつ速水にチョコあげたの?」
「バレンタインに決まっているじゃない。もう公平ちゃんたら、ぼけるには早すぎるわよ」
「息子を無視して、速水に?」
「何言っているの? ちゃんとあなたの分も送ったわよ」
「は? そんなの知らないけど…」
 田口は母に詰め寄る。
「おかしいわね。あなたと晃一君、二人分のチョコをデパートから送ったのに、届いてなかったの? あっ、でも、晃一君がこれをくれたってことは、ちょんと届いたはずよね」
 首をかしげる母に、田口も首をかしげた。そして、もしかしてと、速水を睨んだ。
「わりぃ。チョコ、思ったより美味しくて、お前が当直だったとき…」
 えへっと、速水がごまかし笑いを浮かべた。
「お前、俺の分を食べたなら、そう言えよ。でないと、こんなトラブルが起きる。今回は内輪だったからいいけど…。本来なら、俺が母さんから文句を言われるんだからな。しかも、自分だけはしれっと、お返しまで用意しているって、ずるいよな」
「それ、俺だけじゃなくてお前の分もあわせてのお返しだから…」
「……」
 悪びれるでもない速水に、田口はこういう奴だよなぁ。と速水を見た。その脳裏に、以前、佐藤が速水は三歳児レベルのわがままだと言ったのが蘇る。
 佐藤先生、正解です。こいつはオレンジ以外でも三歳児レベルでした。と、今頃、孤軍奮闘しているか。将軍がいないので、鬼の居ぬ間の洗濯をしているかの佐藤を思った。
「お前、そんなにチョコ食べたかったのか? そんなにチョコ好きだったっけ? だったら、今度、チェリーにある専門店から買ってきてやるから、今日は機嫌を直せよ。なっ!」
と、訳が分からない慰めを受けても、全然、癒されない田口。しかも。
「公平ちゃんったら、チョコぐらいでいじいじするなんて…。あなた、疲れすぎているんじゃないの?」
 違う視点の母発言に、疲れさせているのはいったい誰だよと叫びたくなるのを、ぐっと押さえる田口。取りあえず、ここは心を静めればと、父の横に座ろうとしたら、速水に腕を引っ張られる。
「機嫌直せよ。ほらっ、これやるから…。はい、あーん」
「んっ…。って、食べかけを俺にやるな! しかも、これってお前が嫌いながんもどき!」
 田口の怒りに油を注ぐ速水。
「嫌いじゃなくて、苦手なだけ」
「同じことだろう」
「微妙に違う」
 そんなどうでもいい話題で、真剣に言い合う二人を見ていた父が一言。
「相変わらず、二人は仲良しだね。晃一君はうちの公平と違って、デートのお誘いも多いだろうに…」
 それは田口父でもなくて、速水の外見と肩書きを聞いた者だったら、一度は抱く疑問。この歳まで、独身でいるのはよぼと選り好みをしているのかと。
「忙しすぎて、そんな時間があったら寝てます。若い頃ならいざ知らず、今は他人に気を遣うのもストレスですから。その点、田口は気心知れているので一番、一緒に居て安心できるし、癒されるんです」
 それは田口以外はストレスになるからいらないと言っているのと同じだろうが。と思っても、口には出せない田口公平。そう言ってもらえるのはありがたいが、危ない発言は親の前では止めて欲しい。が、田口だったりする。
 速水にしてみれば、今も昔も田口だけ。他は目にも入らない。なので、その執着ぶりは誰がいようが関係なく発揮される。
「そうか…」
 父がしんみり、息子とその友人を見て呟いた。いつまでも独身でいる息子に関して、嫁と子どもは諦めたのか。口に出さないだけで、期待しているのか。それとも…。
 親が口にしないから大丈夫だと楽観できないのを、田口はよく知っている。だから、あまり彼らの前で速水とべったりしたくない…。
「ところで、速水君はいつまでいられるのかな?」
「お邪魔でなければ、10日ぐらいと考えていますが…」
 お前、10日も家出するつもりだったのか。と、田口は呆れる。今日が3月15日。10日足すと、3月25日。25って卒業式じゃないか。
「そんなに、こっちに来てて大丈夫なの? 晃一君」
「ええ。年度末なんで、事務処理に専念するよう病院長命令で当分、当直なしです。オンコールはありますが」
 当直なしで書類整理って、どれだけ書類を溜めているんだと、田口はこっそり突っ込む。だいたい現場出身の速水は、能力があるのにそれを机上の仕事には向けようとしないのが問題なのだ。先日も溜まりに溜まった書類の印鑑押しに、田口は休日返上で付き合わされた。しかも、電子カルテの不備の訂正をしたのも、田口である。もっと言えば、速水がチェックするはずのサマリーの一次点検をしたのも、田口だったりする。
「あらぁ。だったら、毎日、腕によりを掛けてご飯を作るわね」
 少女のように小躍りする母親を、田口は呆れ顔で見る。
 10日もこんなでかい男がいることに、疑問を抱かないんですか? お母さん。と言いたいのをぐっとこらえる田口。
「田口の作る料理も美味しいけど、やっぱり、お母さんには勝てないから。だったら、毎日、定時で帰ってこようかなぁ。な? あ・ん・ど・ん」
「はい?」
 田口は速水の言葉が理解できない。定時で帰る? オレンジの将軍が? 三度の飯より、手術が大好きなジェネラル・ルージュが? コールが鳴ったら、エッチの最中でも田口を放置していける速水が?
「うん。それって、凄くいいな。普通ぽくって…」
 ぽつりと速水が箸を置いて呟いた。
 普通? 普通って何? 田口の頭の中で『普通』がリフレインされる。やがて、田口は気がついた。
「速水…」
 田口は速水が何を求めて、自分の実家に来たのか。あまりにも、非日常の日が続きすぎると、人はそれを当たり前と思ってしまう。そして、非日常をおかしいと思わなくなってしまう。
 そう、目の前で人が死ぬのがおかしいとか。悲しいとか。感じなくなってしまうのを、速水は恐れているのだ。閉ざされた救命救急センターという世界で、自分たちの言葉を常に理解できる人間しかいないと、一般、世間での感覚が失われてしまう。
「あのな、速水。俺たち、小学生じゃないんだから、一緒に登下校する必要はないだろう」
 それでも、田口的には容認できない部分はある。
「う~ん。でも、一緒に行かないと、学校広いから、俺、どっかで迷子になるかも」
 それを聞いた田口は、来たーっ! 速水のお手々つないで登下校病!とムンクの叫びになった。どういう訳か、速水は毎年、春が近づくとだんだん気分が落ち込むらしく、田口にべったりが悪化するのだ。本人に言わせれば、田口にくっついていると元気になれるそうで、酷いときはオレンジ新棟一階に拉致されて、処置の合間にべったりくっつかれる。部長室で誰も見ていないなら、田口も少しぐらいは容認できるが、血が飛び交う初療室でしかも逃げられないよう速水に睨まれ、壁に張り付くのは耐えられない。
 それだけでなく、手術室にもほとんど拉致状態で連れ込まれ、失神しそうな田口を自分の横に座らせている速水。しかも、這々の体で逃げだそうとした田口に、速水は手裏剣ならず、メスを投げたのだ。それにはその場の全員が硬直した。速水だけが、『逃げたら、今度は当てるぞ』と田口を脅した…。
 このときは、さすがに田口も病院長に速水の所業を訴えた。最初は取り合ってくれなかった高階病院長だったが、田口が泣き落としと藤原経由で訴えたため、ようやく速水を呼び出してくれた。が、結局は速水に軍配が上がり、田口はオレンジ一階の平和と機能維持のため、人身御供と相成った。
 結局、速水の精神不安定は季節によるものと考えられた。しかも、桜が咲くと、あの鬱々の日々は何だったのかと思えるぐらい復活するので、この時期、田口は桜の開花情報のチェックは怠らなかった。
 春が近づくと、浮ついて変な人が出て来るのに、逆の速水。こんな所も、妙にジェネラルだったりする。
「はいはい。春が近づくと、小学生以下に変身する速水晃一君。明日から、一緒に登校してあげるよ。ただし、車でね」
 ここは無駄な抵抗をしないがいいと、田口は知っている。
「だったら、お母さん。お弁当も作っちゃおうかしら…」
「それはいいよ。俺が作るから…」
「えっ? 公平ちゃんが?」
「うん。これでも、自炊歴は結構長いからね。お母さんは朝、ゆっくりしてていいよ。朝食は俺が作るから…」
「公平ちゃん…」
 母が驚きの顔で、田口を見る。
「田口の料理、結構美味しいですよ。お母さんの味とよく似ていて、俺好きです」
 にっこり笑顔の速水に、母の頬がうっすら染まる。そりゃそうだ。原則、食事当番は決めてあるが、忙しい速水はほとんど田口任せ。なので、すっかり田口の味になれてしまった。
「あなたが料理ねぇ」
「俺たちもそろそろ生活習慣病が気になる歳だし、患者に生活指導する前に自分がちゃんとしないとダメだからね」
 苦しい言い訳を田口はした。
「公平も頑張ってるんだな」
 父が息子を誇らしげに見る。
「ええ。私なんかと違って、田口は自己管理もできる優秀な医者ですよ。私は目の前にある命しか救えないけれど、彼は患者の心を救ったり、癒したたりできるんです」
 速水の田口自慢は彼の親の前でも健全だ。誉められるのは嬉しいが、さすがに親の前では恥ずかしい。
「いや。速水こそ、骨身を削って、日夜働いている姿に、俺は勇気づけられて…」
「お前がいるから、俺は目の前の消えそうな命に集中できるんだ…」
「…なんか、照れる」
「そうか?」
 などなど。二人の会話はだんだん気づかないまま、お惚気の領域へと突入していく。それを田口の両親は微笑ましく見る。この歳まで独身で、大学卒業以来ずっと友人と一緒に暮らしている息子。そして、そんな息子と暮らしているのは、誰が見ても、顔よし・職よし・高学歴の速水。彼は学生時代から息子にべったりだった。
 別の見方をすれば、いやでも見えてくるものに、親なら気がついて当たり前だった。父と母。どちらも気づいているが口にせず、息子の幸せだけを祈っている。息子が幸せなら、世間の常識なんか関係ない。速水が寄せる息子への愛情を、彼らは疑ったことはない。だから、黙って、二人を見守っていく。それが今、彼らにできることだった。
 そんな両親に田口は心から感謝していた。

* 続きます。と言いたい…。

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    ようやく後編ができました。もっと書き加えたいところ、満載ですが、取りあえず、田口先生の家族を出したかったので。
そして、さらに続きを書かないと、将軍は家出したまま…。
 平成22年7月4日(日) 作成 掲載
平成22年7月11日(日) 一部修正
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