院外愚痴外来 (将軍×行灯) 本文へジャンプ
 ようやく、多発外傷の重症患者をICUに収容して、オレンジ新棟一階のスタッフがほっと息をつく前に、ホットラインが鳴り始めた。
「はい。東城大学医学部付属病院救命救急センターです」
「桜宮市消防署です。1)37歳男性。野球の試合中、意識喪失、呼吸停止です。現在は血圧122と72。呼吸18。JCS200です」
 オープンになったスピーカーから患者の状況が、オレンジに響く。
「はい。受けます」
 速水のうなずきに研修医が直ちに返事した。と同時に、受け入れ準備が始まる。
「藤本先生と本田先生と山下先生が受け入れを担当」
「「はい」」
 速水に指名された三人は患者受け入れのため、術衣の上から感染予防のガウンを纏うと、救急車搬入口へと向かった。
「残ったメンバーは2)心室細動による心停止に対応できるようにしておけ」
 速水の指示に、てきぱきと救急カートや除細動器などを準備する。
 10分後、救急車がサイレント共に到着した。後部のドアが開くと、直ぐにストレッチャーが下ろされた。救急医三名と看護師が患者に駆け寄る。
「中野和彦さん。1)野球の試合で三塁打を打って全力疾走後、気分が悪くなり、ベンチで休んでいたところ、15時45分頃、白目をむき、四肢を硬直させて意識喪失。その後、無呼吸となり、チームメイトによる胸骨圧迫のみのCPRが実施。2~3年前に、高脂血症の指摘、数ヶ月前より明け方に喘息様呼吸が認められましたが、労作時の呼吸困難、胸痛はなしです。でも、試合開始前に、チームメイトに胸痛を訴えていたそうです。喫煙歴なし、高血圧なし、糖尿病なしです。
 現場到着時、心停止を確認。CPRを開始。AED200で三分後、心拍再開。その後、バッグバルマスクと酸素投与で、血圧122、72。呼吸18。意識レベルJCS200まで回復しました」
 救急隊の報告を聞きながら、ストレッチャーを初療室へと運ぶ。治療用のベットの横にストレッチャーを並べて、“せーの”の掛け声とともに、患者を移動させる。
 直ぐにバイタルのチェックが始まる。
「血圧、140の80。呼吸20です」
「瞳孔3.5と3.5です」
「spO2は100です」
 次々と身体所見が告げられる。
「静脈ライン確保しました」
「よし。動脈血採血とガス分析。静脈ライン・モニターにて監視」
 チームリーダーの藤本が指示する。

 速水はスタッフがてきぱきと動くのを、部長室のモニター越しに見つめる。彼の勘と言えるアラームは潜んだままだ。このまま、任せておこうと、速水は手元の書類に目を戻した。
 しかし、速水が目を離した次の瞬間、患者は激しく身体を動かし始め、叫び声をあげた後に四肢を硬直させた。
「鎮静剤、投与!」
 藤本の指示が飛ぶ。直ちに静脈ラインから薬が投与され、患者の症状は落ち着く。
「気管挿管を行うから、ドルミカム、マスキュラックスを静脈内投与」
 次の指示が出される。患者の呼吸は気道閉鎖はなく、自発呼吸もあるが努力様だった。そのため、藤本は今後のことを考え、挿管を決めた。挿管後はSpO2を100%になるよう換気を行い、次々と検査をしていく。
 2)胸部X線、腹部X線、血算、生化学検査、凝固系、心筋マーカー、心電図、脳CTなどである。
「胸部X線からは2)左横隔膜挙上と無気肺が疑われます」
「脳のCTは2)皮髄境界がやや不鮮明です」
「心電図は2)洞性頻脈。V2-4、ST-Tの上昇を認めます」
「心エコーでは全周性の運動低下を認めます」
 次々と検査結果が報告される。それを聞いて、藤本はひとつの結論に至る。
2)急性心筋梗塞と心室細動による心停止の疑いがある。ただちに、心臓カテーテルとPTCA(経皮的冠動脈形成術)の準備」
「はい!」
 直ぐに看護師から返事があり、カテーテル室への連絡を院内PHSで始める。

「なあ、速水。山下先生って、ひとり暮らし?」
 初療室で何が行われているのか。音声がないため、それを見ていない田口は相変わらず、のんびりした口調だ。
「多分…。青森出身だからな。行灯、もしかして、気があるなんて言うなよ」
 速水が眺めていたモニターから目を離して、田口を睨む。
「アホか。男はお前だけで十分だ。それより、こんなに書類をためるなよ。印鑑押しだけで、腕が引き攣りそうだ」
「悪いな。休みだったのに…。今度なんか、おごるから!」
 速水の妥協案に田口は頷きかけて、はたと気づく。おごる相手が田口…と言うことは。
 それって、家庭内収賄じゃないのか。でもって、おごってもらう俺に何か得があるのか。食べ物に関しては、得になることは何もない。だとしたら、家事を代わってもらったがいい。しかし、それは速水の激務を考えると、無理だろうから…。
「おごってもらうより、休みには休みが欲しいなぁ」
と、田口が甘え声で呟くと、
「今度からは計画を立てて、ちゃんと裁くようにする。なっ?」
 速水が両手を合わせて、田口に謝る。滅多に見られない速水の殊勝な態度に、田口は仕方ないとこっそりため息をついた。
「さっきの話に戻るけど…。部長のお前がここまで事務処理を溜めているってことは、他のスタッフの忙しさは半端じゃないよな。今期入って来た研修医は、全くもって役に立たないだろうし。二年目、三年目も労働基準法無視の生活に、いい加減へたれそうになっているだろうし…。でもって、トップが暴走機関車のお前だし。他のスタッフも似たり寄ったりだしな」
「俺らが忙しいのは、俺たちのせいじゃないんだよ。その点では、自主残業大好きな行灯には文句を言われたくねぇよ。いっつも、俺に放置プレイをかますくせに」
 いい歳をして、速水が拗ねる。
「仕方ないだろう。俺の専門以外の案件が降りかかってくるんだから…。だけど、最近はちゃんと家に帰っているぞ。お前がオフのときは」
 田口は自分に対する速水の訴えは無視して、突っ込む。
「まあ…な。言われてみれば…」
 速水がしぶしぶ認める。
「だろう。お前は俺に甘えまくって、ストレス解消してるけど、山下先生はどうしているんだろうって気になっていたんだ」
「何かあったのか?」
「いや」
「じゃあ、何で?」
 速水の疑問はもっともだ。
「うーん。この前、島津と一緒に夕食を満天で食べていたら、すっごく重たーいため息が聞こえて、振り返ったら、山下先生がいたわけ。今から帰るけれど、ひとり暮らしだから食べて帰ろうと思って、て言うから、一緒にテーブルを囲んだわけ」
「ふーん。で?」
「お前もトップなら、もう少しスタッフに目を向けろよ。特に、研修医には目配りを忘れるな。じゃないと、いつかのどっかの科のようなことが起きる」
「…あれか…」
「そう。あれ…」
 誰も聞いていないのに“あれ”と二人が表現するのは、十年ほど前、ある科の研修医が本館屋上から飛び降りた事件だ。内部調査が行われたが、決定的な原因は分からないままだった。失恋や過酷な勤務や、患者との軋轢や…様々なストレスが重なってだろうと最終的に判断されたが。同業者として田口も速水も、ついに出たか。が本音だった。
「で、誰が山下を慰めるんだ?」
「速水…」
 俺かよ、やっぱり。と速水がぼやく。学生時代は東城大学医学部の剣道部主将として後輩に慕われていたくせに、医師免許を得た途端、一匹狼を地でいくようになった。いつまでも、学生気分でいろとは言わないが、もう少し、仲間を大事にして欲しい。が、長年の友人としての田口の懸案だったりする。
「だけど、お前は忙しいだろう? 俺が代わりに山下先生を慰労してやろうかなって。でもって、ジェネラル・ルージュに対する愚痴を聞かせてもらって、あとでお前をいびる…」
「行灯…。お前、いつから院内の愚痴外来を始めたんだよ」
「オレンジの医者に限ってだけど?」
 しれっと田口が言い切ると、速水がいやーな顔をする。
「お前は…、俺の知らないところで何してるんだ?」
「だから、愚痴外来だってば」
 田口はにっこり笑顔で言い切った。それ以上、田口から欲しい言葉が返らないと判断した速水は、分かったよ。好きにしろ。と呟いて、書類へと意識を集中し始めた。
 そして、ようやく溜まりに溜まっていた書類の山を片付けて、田口…と名前を呼んだ。しかし…。
「おい! 行灯?」
 その姿はそこになく。印鑑が綺麗に押された書類だけが、揃えて置いてあった。どこ行ったんだとモニターを切り替えて探すと、医局でお菓子を摘んでいる姿が映った。
 何やってるんだ。あいつは…。
 そう思いつつも、速水はその姿から目が離せない。血が苦手だと言ってるくせに…。佐藤や研修医らと一緒に笑っているのを、複雑な思いで見つめた。
 まあ、ガキじゃないから好きなようにさせておくか。お節介な奴。
と思う反面、速水はにんまりする。本来、速水は他人の面倒を見るのは好きではない。他人の抱えた荷物を一緒に背負ってやるなんて、とてもじゃないができないし、したくない。だから、外科医になった。さらに、救命救急を選んだのも、その時、その時だけに集中するだけで、ひとりの人間に関わらなくていいのがあった。困難な手術をゲームだと楽しむ脳外科医が東城大にはいるが、あそこまで速水は冷徹にはなれない。ただ目の前の命を助けることに全力を尽くす。その後のことは、他の者に託す。それが速水の救命医としての信念だった。
 だけど、行灯だけがいればいいなんて、俺も終わっているよな。でも、仕方ない。俺の心の琴線を動かすのはあいつだけだからな。
 モニターに映る美人揃いと陰で評判な看護師を見て、速水はもう一度、なんで行灯なんだろうと、呟いた。もともと俺様な性格に加えて、この容姿である。群がる女たちに鬱陶しさに直ぐ気づき、遊ぶのは後腐れのない女ばかりを選んだ。それで、田口と何度かもめたこともあるが、、速水自身はずっと田口だけしか想っていないため、なぜ田口が怒っているのか分からず、泥沼の言い争いになったことも少なくなかった。
 若気の至りだったよなぁ。
 自分の行動と性格を棚に上げて、速水は呟いた。そして、そんな速水に振り回される田口にしてはいい迷惑?に違いない。それでも、毎日、へとへとになるまで働く速水と、同じように働く彼の同僚へ惜しみなく手をさしのべてくれる。田口には田口の考えがあるのだろう。速水はオレンジの業務に支障がない限り、傍観することにした。
 俺がいないところで、俺の愚痴大会か。でもって、その場所は俺んちか? だったら、こっにも考えがあるぞ。
 何やら医局で研修医たちとメモを交わしている田口をモニター越しに眺めつつ、速水はにやりと笑った。それは久しぶりに悪戯を思いついた悪ガキのようだった。

「じゃあ、今週の金曜日でいい? そのまま、遠慮なく泊まっていってもいいから…」
「田口先生、いいんですか?」
「うん。だって、日頃、お互いにあの馬鹿の我が儘に振り回されている者同志、愚痴大会を開かないとやってられないでしょ? まあ、途中で本人の乱入があるかもしれないから、愚痴は早めに言い切っちゃってさ」
 田口がウインクをする。
「…アハハ。…そうですよね」
 救命救急センターの後期研修医の山下は、尊敬する上司を“あの馬鹿”呼ばわりする田口に、ようやく笑顔を見せた。すると、今まで黙って二人の会話を聞いていた佐藤が自分の机から立ち上がると、山下に近づいた。
「遠慮なく田口先生の所に行ってこいよ。運が良ければ、すげーっ楽しいことが起こるかもしれないしなッ」
 ポンと山下の肩を叩くと、にまにま、にやにや。行かなきゃ損が丸出しの佐藤に、山下は首を捻った。そこに、づかれたーっと腕を回しながら、救命救急部に所属する黒田一洋がICUから戻って来た。
「なに? 山下。もしかして、田口先生の院外愚痴外来のお誘い?」
「院外愚痴外来?」
「そっ。田口先生のおうちで、うちの部長への不満をぶちまけて、それをおかずに酒を飲む。楽しいぞーっ。いつ? 俺も行こうかなぁ。金曜か…」
 すかさずボードで自分の勤務をチェックする黒田。
「金曜はあいてるから、俺も伺ってもいいですか? 部長は当然、当直ですよね」
「もちろんです。でも、いつものパターンだと帰って来るでしょうが…、それまでに愚痴三昧ってことで」
「ですよねぇ。まっ、それだけがあの人の人間らしい所ですけどね」
 ?? 山下は黒田と田口の会話に首を捻るばかり。
「じゃあ、マンゴーを持って行くんで、よろしくお願いします。あっ、山下。お前はお土産は何も用意しなくていいぞ。ただし、救急の教科書とノートを持って来いよ。いいな」
 ますます山下の??を増やしてて、黒田はコーヒーを飲み干すと、慌ただしく医局を出て行った。
 救命救急は本当に息をつく暇もない。常に緊張を強いられるのに慣れることはあるのだろうかと、田口は思う。24時間、365日休むことのない救命救急センターで働くスタッフが疲弊しない方法を、大学も国も考える時期が来ている。オレンジ新棟が赤字量産部門とだと言われるのは、何もオレンジだけの問題ではない。救命救急センターでの救命率は速水たち、優秀なスタッフのおかげで上がったと言えるが、二階の小児科では医学の発達で救えなかった子どもの生存率が上がった。その結果、NICUなど多くの人手がいる施設にお金がかかるようになった。
 だが、救命率や治療率の上昇は病院の収益に貢献しない。

 そして、金曜日。
 田口は定時で帰宅すると、準備を始めた。食べ盛り?の山下のために、ちょっと高価な牛肉を用意した。他にも、いろいろ食材を買い込んだ。経費は全て速水持ち。佐藤や黒田などオレンジ勤務が長い医者は、田口に関係なく速水にお呼ばれするときがあるので、田口と速水が一緒に住んでいることは知ってるし、速水のしょうもない私生活も知っている。職場でのカリスマ将軍も、家じゃあ無用の長物扱いされている姿を見ると、とっても楽しかったりする。しかも、速水は自宅に同僚がいても関係なく田口に甘えまくる。プライベート・モードの将軍は目も当てられない。が、オレンジ・スタッフの格言だったりする。
「後は…」
 田口はダイニング・テーブルに並べたサラダやコップや皿などを眺めて呟いた。そして、炊飯器のスイッチを入れる。取りあえず、焼き肉パーティーと銘打っているので、電気プレートを準備した。各自で好きなように焼けるよう田口は、一人分の包丁とまな板も準備した。これで、野菜を好きなように切って焼けばいいのだ。
「ありすは先にご飯を食べておこうか」
 田口はお散歩中のありすに声を掛けると、ニンジンやらキャベツなどを小さく刻んで、ありすのえさ入れに入れた。ぴょんぴょんと、ありすは家に戻ると、えさ箱の前できちんと待つ。
「お利口だね、ありす。あとでお客さんが来るけど、お利口さんにしているんだよ」
 きょとんとありすは田口を見上げた。濡れたような大きくて黒い瞳が相変わらず、可愛い。田口はありすに笑いかけて、ケージの中にえさ入れを戻した。入り口は開けたまま、食べ終えた後もお散歩もできるようにと。
 黒田が山下を連れて、田口宅を訪れたのは午後7時頃だった。
「お邪魔します、田口先生。これ、お土産のマンゴーです」
「ありがとう。うちにはマンゴー将軍とマンゴー姫がいるから嬉しいね。でその将軍は?」
「…。僕らがオレンジを出て来るときは張り切って、腹部外傷の手術に向かっていましたよ。おかげで、嫌味も言われずに済みました」
 黒田はニッと笑うと、田口にウインク。その隣で、こんなときでないと、田口にウインクもできないほど、将軍の嫉妬は激しい。
「じゃあ、しばらくは大丈夫かな…」
 そう呟くと、田口は二人をダイニングへと案内した。壁際でありすは食事中。しょっちゅう、獣医学部の付属病院に預けられているので、人見知りはほとんどないありす。今も気にせずもぐもぐとペレットや藁を食べている。
「お邪魔します…」
 少し緊張気味で山下が黒田の後をついて来る。
「どうぞ。うさぎがうろうろするかもしれないけど、気にしないでいいから。勝手に遊んでいるし…」
 田口はケージを指して、説明をした。
「あれって、部長自慢のうさぎですよね」
「わぁ。可愛い…ですねぇ」
 同時発言に田口は苦笑しながら、
「自慢かどうか分からないけど、可愛がっているのが意外というと意外だったりして」
と、冷蔵庫にマンゴーを入れつつ、答えた。
「ですよねぇ。で、名前は?」
「ありす。小児科の子どもが付けてくれたんだ」
 山下がケージの前にしゃがんでありすを覗き込む。大きな目に垂れ下がった耳。ちょっとつぶれ気味の顔。
「ありすちゃん…かぁ」
 もぐもぐ食べるありすに山下はじっと見つめる。黒田の方はさっさと椅子に座る。
「黒田先生はあのわがまま将軍に付き合わされて、大変ですよね」
「いやまぁ。速水先生の言うことは、ある意味正論ですから…。何年たっても速水先生は凄いと思うし、尊敬しますよ。僕は麻酔科医なので直接、速水先生と一緒にオペに入ることが多いから、余計にそう思います…」
「でも、救命救急は一人の医師のスタンドでできる訳じゃないですよね。速水がいくら優秀でも、一人でできることには限界があります」
「そうですが…。あのカリスマあってのオレンジですよ。お前もそう思うよな、山下」
 黒田に呼ばれた山下は慌てて、ありすから手を離して、顔を上げた。速水先生は凄いって思うだろうと、再度、黒田に言われて、山下は大きく頷いた。
「東城大学の救命救急センターには天才って言われる救命医がいるって、学生時代、聞いたんです。どんな人かなって、ベッドサイド・ラーニングのときに救命救急センターを見学する機会があったので楽しみにしていたら…。
 その時は交通事故の多発外傷患者が三人も運ばれて来て、速水先生がひとりでチェックして指示を出していました。それこそ、次々と報告される検査結果を間違えることなく的確に指示していく姿に、ただ見惚れていました。
 あんな医者になりたい。一瞬で、憧れました。だから、僕は救命救急センターを研修に選びました」
「そうなんだ。でも、実際の速水はわがままでしょう。ホットラインが鳴ったら、ほぼ100%受け入れるなんて、理想的だけど現実にはどうなんだろう。もちろん、患者さんにとってはありがたいとは思うけど…。スタッフにはどうなんだろう。って、時々、思うときがあるんだけど。
 まっ、速水はブレーキがない機関車だから、勝手に走らせておいて…。山下先生は後期研修医だから、後輩の指導や面倒を見つつ、カンファの用意はあるし、研究も…。倒れないかなぁって、心配で」
 田口は肉の用意をしながら、座ってと山下に椅子を勧める。
「でも、オレンジで働くスタッフはみんな同じ条件で働いていますし…。佐藤先生や新名先生なんか見ていると、まだまだです」
 山下が謙虚に言うのを、田口は山下先生って、本当に真面目なんだなと感心すると同時に、少し不安になる。
「佐藤先生や新名先生は救命救急が専門だから、ほとんど雲の上だと思ったがいいぞ。でもって、藤本先生や原口先生なんかも、あのジェネラルに見初められての派遣だから、かなりのもの…。一緒にやっていて、ああ、すげえ…って、白旗あげるのなんかしょっしゅうだし…。この歳になっても、ジェネラルからはチュッパ投げつけられるし…。凹みますよねぇ、田口先生」
 黒田の珍しい愚痴に山下は目を見張るばかり。
「その速水だけど、この前うちの教授回診があっているときに、死にそうな声で迎えに来てぇて連絡入って…。迎えに行くと、外来受付の椅子で爆睡。私服に着替えていても、首にPHSを掛けたまま。しかも、名札も首から提げているしで、身分も名前もばりばり分かる状態。そして、側には総合外来の看護師さんの見張り付き。患者さんたちはみんなどん引きしているし…。
 恥ずかしいったらなかった。しかも、叩き起こせば起きたらで、俺に、あんどーんとか言って甘えまくって、俺は本気で一発殴ってやろうと思った。けど、さすがに、ここじゃあ、やばいと我慢した」
 田口の速水愚痴に黒田は大笑い。山下は、速水先生が…と絶句。
「いくら院内自由度100%でも、場所を考えろって、オレンジでも教育してくれませんか」
「それは…ちょっと無理です。何しろ、ジェネラルがオレンジのトップなので、僕らにチュッパは飛んで来ても、僕らはチュッパを投げられません」
 黒田が笑いをこらえて、田口に話しかける。
「そうだよね。やっぱり、速水をしつけるのは俺? いやだなぁ」
 心底、いやーな顔をした田口に、山下がぷっと吹き出した。
「何であんなに我が儘なんだろう。昔からだから、今更、矯正は無理だと諦めているけど、何か腹立つよね。パパイヤよりマンゴーが美味しいんだとか、勝手に言ってろって…。黒田先生もマンゴーだけでなくて、パパイヤも用意してくれれば良かったのに…」
「…あはは…。次回はそうします。ついジェネラルの素顔が見たいもので…」
 苦笑する黒田を前に、田口は速水の素顔ねぇと呟いた。
「オレンジにいると、速水先生。常にオン状態なんで、楽しむツボなんてないんですよ。カリスマ、天才、ジェネラル…。確かに、そのままでも、速水先生は格好いいんですけど。そこはやっぱり凡人には、おもしろエピソードが欲しいわけです」
「まあ、その気持ちは分からないでもないけれど…。速水の面白い話って何かあるかなぁ。マンゴー絡みなら、この前、沖縄でERアップデート・セミナーをしようと、北陸の某先生と電話で盛り上がっていたけど…。
 何でも、マンゴー食べ放題にチャレンジしたい速水と、沖縄でリゾートしたい某先生の意見が一致して、沖縄県立中部病院のなになにら先生に連絡しようって…。会場だって、リゾートホテル。別の意味でやる気満々なんだって、知ってた?」
「えっ? そんな理由で、場所を探しているんですか?」
「動機は真剣だけど、そこは速水。夏休みと仕事を合体させているところが、切ないけどね」
 田口にしてみれば、休みもおちおち取れない速水たち、救命救急医こそリフレッシュする時間と場所が必要だと思っている。
「考えようでは、研修会で、しかも、ERアップデート・セミナー。でもって、沖縄なら呼び出されませんよね。うちにしても、東京から新幹線で1時間ぐらい掛かるのを考えると、どんなに早く速水先生が戻っても5時間。だったら、ジェネラルを呼ぶより、各科の専門医を連れて来たが早い。考えましたよね」
 黒田はひたすら感心する。しかし、田口はことの真相を知っている。
 場所が沖縄になったのは、講師候補に挙がっているDr.が北陸と東北にいて、この二人が海で泳ぎたいと速水に愚痴ったためだったりする。海外はちょっとだけど、沖縄なら…。
 そんな話をしていて、午後九時過ぎ、“ただいま~”と聞き慣れた声が届いた。やっぱり…と顔を見合わせた田口と黒田。えっ?と硬直している山下の前に、少々、お疲れの速水晃一が顔を出した。
「速水先生!」
「おう、山下。食べてるか?」
 背広にノーネクタイの速水が、いつもの口調で笑った。
「主役の登場ですね」
 黒田がこっそり田口に告げた。やっぱり帰って来たか。と、言う田口の呟きは取りあえず、スルーされた。
「お前、今夜は当直じゃなかったっけ?」
「その予定だったけど、今夜は重症患者は来ないだろうから、帰って来た」
 にへらと速水は悪びれる様子もなく答えた。
「速水…」
 こんな奴だと分かっている自分を誉めるべきか、田口は一瞬だけ迷った。。
「まっ、うちのジェネラルがこんな人だと田口先生もよくご存じでしょう」
 黒田がフォローになってないフォローをする。
「行灯、俺の分は?」
 相変わらず、無駄に発散される色気をしっしっと手で追いやりながら、田口は冷たく、
「その前に、お前、オレンジに戻れ」
と、命じた。
「い・や・だ。せっかくここでJaurnal clabをしようと思って帰って来たのにぃ。で、取りあえず、何か食べさせて。ふりかけご飯でいいから…ね? 行灯…」
 スーツの上着を脱いだ速水が、田口にくっついて甘える。
「くっつくな。暑苦しい…。何か食べるのを用意しておくから、着替えて来い」
「はーい」
 小学生のような優等生の返事をすると、速水は着替えるため、ダイニングを出て行った。それを黒田は笑いをこらえて見送り、山下は呆然と見送る。
「山下。あれが速水先生の素顔。オフの状態。あのギャップには笑っていいのか悩むけどな」
「……」
 黒田のフォローも山下の耳には届かず。
「笑っていいよ。もう笑うしかないと思うから…。しかも、9時。もう少し、遅くなるって思っていたのに…」
「田口先生、多分、速水先生はこれでも、ぎりぎりまでオレンジに残っていたんですよ。昼間運ばれた重症患者が落ち着くまではって、帰りたいのを我慢していたんだと、僕は思います」
「え? そうなの?」
 田口は黒田を見つめた。そして、速水は、
「おっ、マンゴー」
 嬉しそうに呟くと、ビールの缶を一本手にして、田口たちが座るテーブルにやって来た。
「黒田。マンゴーありがとうな。後で、食べよう」
 にっこりの速水。
「お前、その手にしているのは何だ? オンコールじゃないのか?」
「だーかーらー、今日は重患来ないから、俺は休み。まっ、よほどのことがあれば、コールがあるけれど、それ以外はあいつらで間に合うだろう」
 拗ねモードで速水は田口に言い訳をする。それが意外にも可愛かったりするから、たちが悪い。
「まあ、お前がそう言うなら、俺は何も言わないけれど…」
「俺の勘は外れない。それはお前だって、知っているだろう」
 自信満々の速水に、それ以上、田口は何も言えず、速水の食事の用意をする。ふりかけご飯でいいと言った速水の前に、しっかり肉や魚が並べられた。
「う~ん。さすが、行灯だ。愛してるっ♥」
「正当な評価をありがとう」
 田口は速水に苦笑しつつ、黒田たちにも食事を勧める。
「そうだ。今年のERアップデート・セミナーな。あれ、うちからスタッフとして何人か出すことになったんで、黒田は救急救命センターにおける麻酔科医の位置について報告を頼むな。山下は黒田の助手として、沖縄行き決定。後は、大学側と相談して決めるか…」
「プレゼンですか?」
「多分。俺も詳しい内容は聞いていないから、はっきり言えないが…。桜宮市は全国でも珍しい救急車の、俗に言うたらい回しがないんだ。東城大学の救急救命センターという第三次病院が酷いのは受けてくれるから、一次と二次救急病院は安心して診られるんだ。いざとなったら、オレンジに運べば何とかなる。
 でもって、オレンジでそこまでできるのは、黒田のような専属の麻酔科医が救命救急センターにいて、麻酔管理をしてくれるからに他ならない。高度な技術が必要な手術ほど、麻酔科医が必要だ。俺や新名が思う存分、動けるのも麻酔科医あってのことだ。
 だが、他の救命は慢性的に人手不足だ。その中で、どんな専門医が必要か。もちろん、救急救命医が数いればいいんだろうが。うちだって、俺たち古株にはそれぞれ専門があり、若手には総合外科とか外傷外科などが専門だったりする。さらには、各科からの派遣も行われている。その辺を提示してもらえるといいかな。
 ちなみに、お前らの経費は全額、大学持ちになるようにしておく」
と、一気にしゃべった速水は、がつがつと用意された肉やら野菜やらを口に入れた。黒田はそんな速水に対して、今夜のジェネラルは完全なプライベートじゃないと、少し残念に思った。
「黒田ちゃん。今日、泊まっていく?」
 あっと言う間に、夕食を終えた速水は、田口からお茶をもらって、ようやく、まったりし始める。
「そうですね。明日は休みだから、どっちでもいいんですけれど…」
 上司の自宅に泊まるのは、それなりの勇気がいるのを黒田は知っている。
「ん~。だったら、ちゃっちゃっと食べて、カンファ始めよっか」
 時計の針は22時を回っている。今から、カンファレンスをしていたら、日付はあっと言う間に明日になるだろう。
「今からですか?」
「うん。それを分かって来たんじゃないのか?黒田ちゃん。あっ、行灯はメイドな。でもって、山下は強制参加。これ、部長命令」
 何が何だか分からないという顔をしている山下に、速水はウインク。相変わらず、色気を垂れ流す速水に、黒田と田口は目を見合わせて呆れた。
「場所は?」
「リビング」
 食後でまったりしている速水は、少し疲れた顔で田口に答えた。そして、さらに、
「行灯。片付けは後で手伝うから、お前もこっち来て、休憩しろよ」
と、付け加えた。田口は分かったと言いつつも、使い終わった食器を、食器洗い機に入れる。
「今、のんびり休んでいられるのは、お前ぐらいなの。
 あっ、そうだ。黒田先生たち、お風呂入って来たら? どうせ、速水のカンファは時間が掛かるだろうから…」
 田口は黒田と山下が泊まるのを前提に考えていた。なので、ゲストルームもちゃんと準備していた。
「うちの風呂は広いぞお。男二人で入っても余裕だし、夜景は見えて、なかなかだ。なっ? 行灯」
「広くなったのは、速水が湯船で身体を伸ばして、まったりしたいだの、本を読みたーいだのの、我が儘を言ったせいだろう」
「ん~。確かに…。でも、一番の理由は、お風呂で行灯とイチャイチャしたかっただけどな。けど、そんな暇ないのが現実。お互い、忙しすぎて」
 しくしく泣き真似をする速水に田口は、
「黒田先生からもらったマンゴーどうやって食べる?」
と、全く関係ない話題を振った。
「ジュースがいいかも」
「ジュース作るの、けっこう面倒なんだよな。まあ、ありすにもあげると約束するなら、考えてやるけどな」
「するする。皮じゃなくて、実をちゃんとやるから」
「実じゃなくて、身な」
「うん」
 基本、田口命の将軍は田口に対しては、しごく従順だ。


   参考文献:1) 月刊 「レジデント・ノート」Vol9 NO.1(4月号) 2007 P52 羊土社
          2) 月刊 「レジデント・ノート」Vol9 NO.1(4月号) 2007 P53 羊土社

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    行灯先生、病院の外でも愚痴外来をしています。でもって、それは将軍のためだったりします。
 平成22年6月27日(日) 作成 掲載
平成22年7月25日(日) 一部訂正と追加 
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